第5話 君は何も悪くない、と彼は言った
翌朝、私は鳥の声で目を覚ました。
誰かに扉を叩かれたわけではなかった。冷たい水をかけられたわけでもない。リリアの甲高い声で起こされたわけでもない。
ただ、窓の外で小鳥が鳴いていた。
それだけのことで、私はしばらく寝台の中から動けなかった。
部屋は暖かい。
暖炉の火は小さくなっていたけれど、まだ赤く残っている。帳の隙間から朝の光が細く差し込み、白い壁に淡い線を作っていた。
「クロエ様。お目覚めでいらっしゃいますか」
扉の向こうから、マリーの声がした。
私は反射的に起き上がる。
「はい。すぐに支度を」
「急がなくて大丈夫でございます。朝のお茶をお持ちしてもよろしいでしょうか」
急がなくていい。
その言葉に、また少し戸惑う。
レナード家では、朝はいつも急がなければならなかった。義妹の髪を整える時間。義母の手紙を届ける時間。父の書類を写す時間。朝食の前に終わらせなければならない仕事が、いくつもあった。
遅れれば叱られる。
叱られなくても、リリアが笑う。
「姉様は本当に鈍いのですね」
その声が耳に残っていて、私は寝台から降りようとした。
けれど、膝が少し震えた。
「クロエ様?」
「大丈夫です」
そう答えたけれど、扉の向こうのマリーは少し間を置いてから言った。
「では、お茶はお部屋の中でお支度してもよろしいでしょうか。お体を起こすのは、それからで」
私は小さく息を吐いた。
気を遣われている。
それが分かるのに、嫌ではなかった。
朝の支度は、静かに進んだ。
顔を洗い、髪を梳き、柔らかな若草色の室内着を着せてもらう。生地は軽く、袖口には小さな白百合の刺繍があった。
「これは」
「殿下よりお預かりしております」
「殿下が?」
「クロエ様は淡い色がお好きだとうかがいました」
私は袖口に触れた。
淡い色。
そういえば、昔は好きだった。
母がよく、クロエには淡い緑が似合うと言ってくれた。春の若葉の色。白百合の葉の色。派手ではないけれど、優しい色。
母が亡くなり、義母が来てからは、そういう色のドレスはリリアのものになった。
私には灰色やくすんだ茶色が回ってきた。
「……覚えていませんでした」
私は袖を見つめたまま言った。
「自分が、この色を好きだったこと」
マリーは静かに微笑んだ。
「では、今日思い出されましたね」
朝食は小さな丸卓に用意された。
焼きたてのパン。卵と野菜のスープ。薄く切った果物。蜂蜜を半匙だけ入れたミルク。
私は昨日よりも少しだけ多く食べられた。
食べ終わる頃、扉が叩かれた。
黒衣の近衛が二人、そして年配の侍従が、いくつかの箱を運んでくる。
「クロエ・レナード様。殿下の命により、レナード家より保全された品々をお届けいたします」
胸が強く鳴った。
古い木箱。小さな宝石箱。封蝋のついた書類箱。布に包まれた何か。
「こちらは、亡きレナード男爵夫人の遺品でございます」
私はすぐには近づけなかった。
見たい。
けれど、怖かった。
本当に戻ってきたのなら、私は嬉しくて泣いてしまうかもしれない。
もし壊れていたら、私は今度こそ何かを憎んでしまうかもしれない。
「見ます」
侍従が最初の箱を開ける。
そこには、白百合の髪飾りが入っていた。
お母様が春の祝宴の日に身につけていたもの。
母が亡くなったあと、リリアに奪われ、何度も見せびらかされたもの。
一部の花弁に小さな欠けがあった。
それでも、確かに母の髪飾りだった。
取り戻されたものは、あまりにも綺麗に並べられていた。
髪飾りも、日記も、小箱も、私が泣く順番まで知っているように。
そう思って、すぐに打ち消した。
そんなはずはない。
クロード殿下は、私を助けてくださったのだから。
手を伸ばそうとして、私は止まった。
触っていいのか分からなかった。
これは母のものだった。
けれど、その後はリリアのものにされた。
では今、これは誰のものなのだろう。
「君のものだよ」
背後から声がした。
振り返る。
クロード殿下が入口に立っていた。
「入っても?」
「はい」
私は慌てて立ち上がろうとした。
殿下が片手で制する。
「そのままで」
そして部屋に入ると、箱の前まで歩いてきた。
「これは、君の母君が君に残したものだ。誰が使っていたとしても、君のものだよ」
私は髪飾りを見た。
小さな白百合。
母の手が、髪に触れた記憶。
クロエ、走ってはだめよ。
声が、胸の奥でよみがえる。
私はようやく、髪飾りに触れた。
冷たい。
けれど、懐かしかった。
「お母様」
声が漏れた。
その瞬間、涙が落ちた。
ひとつ落ちると、止まらなくなった。
私は髪飾りを胸に抱きしめた。
「すみませ……」
謝ろうとして、言葉が詰まる。
クロード殿下が、静かに言った。
「謝らなくていい」
その声があまりにも優しくて、私はさらに泣いた。
「泣いていい」
そう言われたから。
私は初めて、泣くことを許された気がした。
母が亡くなった日、私は泣かなかった。
泣けば義母が面倒そうに眉をひそめたから。
葬儀のあと、リリアが母の部屋に入り、鏡台の引き出しを開けた日も、私は泣かなかった。
泣けば父が「みっともない」と言うと思ったから。
婚約が決まった日も、泣かなかった。
家を出られるなら、それは幸運なのだと自分に言い聞かせたから。
私はずっと、泣かないことだけが自分の最後の形だと思っていた。
けれど、今は泣いた。
母の髪飾りを抱きしめて、子供のように泣いた。
クロード殿下は何も言わなかった。
慰める言葉も、急かす言葉もなかった。
ただ、そこにいてくれた。
私が泣き終わるまで。
涙がようやく落ち着いた頃、マリーが温かい布を差し出してくれた。私は目元を押さえ、小さく息を吸った。
「失礼いたしました」
「謝らない」
クロード殿下が言った。
私は少しだけ笑ってしまった。
「また、謝ってしまいました」
「少しずつでいい」
殿下はそう言って、次の箱へ視線を向けた。
「続けても大丈夫?」
私は髪飾りを膝の上に置き、頷いた。
次の箱には、母の日記が入っていた。
茶色の革表紙。角は擦り切れている。表紙の裏には、母の字で私の名が書いてあった。
クロエへ。
それだけで、胸がいっぱいになった。
「読める時でいい」
クロード殿下は言った。
「今すぐ読まなくても、なくならない」
なくならない。
その言葉が、どれほどありがたいか。
レナード家では、大切なものはいつも突然なくなった。
でも今、クロード殿下は言った。
なくならない、と。
最後の小箱は、空だった。
「こちらには、昨夜お届けした銀栞が収められておりました」
侍従の言葉に、私は枕元の小さな卓へ目を向けた。
白百合の細工が施された、薄い銀色の栞。
十年前、白百合庭園でユリウス王子から受け取ったもの。
私は銀栞を手に取った。
「あの日の王子様のものだね」
クロード殿下が言った。
私は栞に触れたまま、顔を上げた。
「ご存じなのですか」
「少しだけ」
「……ユリウス殿下のことを」
口にした瞬間、自分の声が細くなった。
ユリウス王子。
幼い日の救い。
私がずっと胸にしまってきた、淡い憧れ。
クロード殿下は、静かに頷いた。
「知っているよ」
その言い方は、不思議だった。
遠い人の話をしているようで、近すぎる記憶を避けているようにも聞こえた。
「私は、ユリウス殿下に救われました」
気づくと、私は話していた。
「でも、それは子供の頃の話です。殿下は、きっと覚えていらっしゃらないと思います。私のような下級貴族の子供を、覚えていらっしゃるはずがありません」
クロード殿下は何も言わなかった。
私は銀栞を見下ろす。
「それでも、私は覚えていました。あの日、ユリウス殿下がくださった言葉を。泣き終わったら、続きを読めばいい、と」
指先で文字をなぞる。
「その言葉があったから、私は耐えられました。いつか王子様が迎えに来てくれると思っていたわけではありません。ただ、私の物語はまだ終わっていないのだと思えたのです」
言ってから、恥ずかしくなった。
皇太子殿下の前で、別の王子様への思い出を語るなんて。
「申し訳ありません」
「謝らない」
殿下の声は静かだった。
けれど、ほんの少しだけ痛みが混じっていたように聞こえた。
「大切な記憶なんだね」
「はい」
私は正直に頷いた。
「でも、もう子供ではありませんから」
自分に言い聞かせるように言った。
「いつまでも、あの日の王子様にすがっていてはいけないのだと思います」
クロード殿下の瞳が、わずかに揺れた。
「そう」
「はい」
「では、いつか君がそうしたいと思ったら、その記憶に別れを告げに行こう」
「別れを」
「白百合庭園へ」
胸が、小さく跳ねた。
白百合庭園。
十年前、迷子になり、泣いて、王子様に見つけてもらった場所。
そこへ戻る。
考えただけで、息が詰まりそうだった。
「怖い?」
「少し」
「なら、今でなくていい」
クロード殿下は優しく言った。
「君が歩けるようになってからでいい」
私は銀栞を握りしめた。
この人は、急かさない。
私が自分で選べるまで、待ってくれる。
そのことが、ひどくありがたかった。
その日の終わり、私は母の日記に手を置いた。
まだ読めなかった。
読めば、お母様の声が戻ってくる。
戻ってきた声を、私は受け止められるだろうか。
分からなかった。
だから今日は、銀栞を手に取った。
白百合の細工。
裏の文字。
泣き終わったら、続きを読めばいい。
――ユリウス
私はその文字をなぞりながら、小さく呟いた。
「お母様。私、少しだけ泣けました」
窓の外では、夕方の光が白く揺れていた。
私の物語は、まだ続いている。
でも、その続きを一人で読まなくてもいいのかもしれない。
今は、そう思えた。




