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虐げられ令嬢は皇太子の愛に救われ、あの日の王子様に別れを告げた  作者: 堀吉 蔵人


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第4話 あの日、王子様は私を見つけた

十年前。


王国歴五一八年、春。


白百合庭園は、王宮の奥にあった。


春の祝宴の日だけ、身分の低い貴族の子供にも一部が開放される。といっても、私のような下級貴族の娘に許されるのは、庭園の端を母に手を引かれて歩くことくらいだった。


それでも私は嬉しかった。


お母様は、その日、いつもより顔色がよかった。淡い水色のドレスを着て、髪には白百合の小さな髪飾りを挿していた。


「クロエ、走ってはだめよ」


「はい、お母様」


私は頷いた。


頷いたのに、白百合の花壇の向こうに小さな蝶を見つけて、つい足を速めてしまった。


ほんの少しだった。


ほんの少し、母の手を離しただけ。


けれど王宮の庭は広く、白い花はどこまでも同じように咲いていて、振り返った時には、お母様の姿はもう見えなかった。


「お母様?」


返事はなかった。


楽団の音が遠くから聞こえる。大人たちの笑い声も、風に混じって薄く流れてくる。


私は花壇の間を歩いた。


白百合は綺麗だった。


けれど、ひとりで見る白百合は、少し怖かった。


「お母様……」


声が震えた。


庭園の奥には、小さな温室があった。硝子の壁に春の日差しが反射して、眩しいほど光っている。私はそこに誰かいるかもしれないと思って近づいた。


その時だった。


背後から、くすくすと笑う声がした。


「迷子?」


振り返ると、知らない子供たちが三人立っていた。私より少し年上の令嬢が二人と、少年が一人。


身なりのよさから、私よりずっと上の家の子供だと分かった。


私は慌てて礼をした。


「レナード男爵家のクロエと申します。母とはぐれてしまって」


「レナード?」


一人の令嬢が首を傾げる。


「聞いたことがないわ」


もう一人が笑った。


「男爵家ですもの。白百合庭園に入れただけでも、ありがたく思わないと」


胸の奥が小さく縮んだ。


何か言い返してはいけない。


お母様はいつも、困った時ほど丁寧にしなさいと言っていた。


「失礼いたしました。私は母を探します」


そう言って離れようとした。


けれど、少年が私の前に立った。


「待てよ。迷子なら、案内してやる」


「ありがとうございます。でも、私――」


「いいから」


少年は私の腕を掴んだ。


痛かった。


私は思わず身を引いた。すると、その拍子に胸元のリボンが引っかかり、服の縫い目が小さく裂けた。


令嬢たちが笑った。


「まあ、見て。みすぼらしい」


「男爵家のドレスって、すぐ破れるのね」


恥ずかしさで顔が熱くなった。


その時、少年が私のポケットに手を伸ばした。


そこには、お母様が持たせてくれた小さなハンカチが入っていた。


白い布に、白百合の刺繍がある。


お母様が夜に少しずつ刺してくれたものだった。


「返してください」


私は手を伸ばした。


少年は笑って、ハンカチを高く掲げた。


「取れるなら取ってみろよ」


私は背伸びをした。


届かなかった。


令嬢たちがまた笑った。


視界が滲む。


泣いてはいけない。


泣いたら、もっと笑われる。


そう思ったのに、涙は勝手に目の端に溜まった。


その時、鋭い声がした。


「何をしている」


全員が振り返った。


白百合の花壇の向こうに、一人の少年が立っていた。


白い上着。銀の飾緒。胸元に輝く王家の紋章。淡い金の髪が風に揺れ、青い瞳は、子供とは思えないほど静かだった。


少年たちの顔色が変わった。


「ユリウス殿下……」


誰かが震える声でそう言った。


ユリウス王子。


その名は、私でも知っていた。


王家の第一王子。白百合の君。


春の祝宴で、遠くからひと目見られれば幸運だと言われている方。


その王子様が、まっすぐこちらへ歩いてきた。


「その子のものを返せ」


「で、でも、僕たちは遊んでいただけで」


「返せ」


ユリウス殿下の声は静かだった。


けれど、逆らえる声ではなかった。


少年は青ざめた顔で、ハンカチを私に投げ返そうとした。


けれど手元が狂い、ハンカチは近くの薔薇の枝に引っかかった。


ユリウス殿下がそれを取ろうと手を伸ばす。


「あっ」


思わず声が出た。


殿下の右手の甲が、棘に触れた。


小さな赤い線が浮かぶ。


ほんの少しの傷だった。


けれど私は、怖くなった。


王子様の右手の甲から、血が出ている。


私のせいで。


「申し訳ありません」


私は慌ててハンカチを受け取ると、そのまま殿下の右手の甲に押し当てた。


「血が」


「これくらい、痛くないよ」


「嘘です。血が出ています」


ユリウス殿下は、少し驚いたように私を見た。


私は泣きそうな顔のまま、ハンカチで傷を押さえていた。


殿下が小さく笑う。


「君は、助けられたのに、僕を助けようとするんだね」


その言葉が、胸の奥に落ちた。


誰かに笑われるためではなく。


誰かに叱られるためでもなく。


私がしたことを、初めて誰かが見てくれた気がした。


「お名前は」


殿下が尋ねた。


「クロエ、です。クロエ・レナード」


「クロエ」


王子様が、私の名前を呼んだ。


それだけで、白百合庭園の怖さが消えていくようだった。


「いい名前だね」


私は何も言えなかった。


ただ、頬が熱くなった。


ユリウス殿下は、手にしていた小さな本を開いた。


その間に、銀の栞が挟まっていた。


白百合の細工が施された、薄い銀色の栞。


「これは、お礼」


「いただけません。そんな、立派なもの」


「じゃあ、貸しておく」


殿下はそう言って、銀栞を私の手に置いた。


「泣き終わったら、続きを読めばいい」


「続きを、ですか」


「うん。今日が嫌な日でも、それで終わりじゃない。泣き終わったら、続きを読めばいいんだ」


幼い私には、その言葉の意味が全部は分からなかった。


けれど、優しい言葉だと思った。


とても、とても優しい言葉だと思った。


「ありがとうございます、ユリウス殿下」


私が礼をすると、殿下は少しだけ目を細めた。


「そのハンカチは、借りていてもいい?」


「はい。血が止まるまで」


「じゃあ、大切にする」


大げさな言い方だと思った。


けれど私は嬉しかった。


お母様が見つけてくれたのは、それからすぐだった。


「クロエ!」


母は駆け寄ってきて、私を抱きしめた。


私は母の腕の中で、ようやく声を上げて泣いた。


ユリウス殿下は、少し離れたところでそれを見ていた。


別れ際、殿下は私に言った。


「また、どこかで」


それは、ただの挨拶だったのかもしれない。


王子様にとっては、その日の出来事の一つでしかなかったのかもしれない。


けれど私には、宝物になった。


家に帰ってからも、私は銀栞を何度も見た。


裏には、小さな文字が刻まれていた。


泣き終わったら、続きを読めばいい。


――ユリウス


私はそれを、何度も指でなぞった。


その日から、つらいことがあるたびに銀栞を握った。


お母様が亡くなった日も。義母が来た日も。リリアに部屋を奪われた日も。父が私を見なくなった日も。婚約者が一度も私を名前で呼んでくれなかった日も。


私は銀栞を握って、心の中で繰り返した。


泣き終わったら、続きを読めばいい。


だから、私は終わらない。


そう信じていた。


そして今。


王宮の客室で目を閉じながら、私は銀栞を胸に抱いていた。


暖炉の火。柔らかな寝台。鍵のかかった扉。誰にも奪われない夜。


十年前、白百合庭園で泣いていた私を見つけてくれたのは、ユリウス殿下だった。


今夜、終わったはずの私を見つけてくれたのは、クロード殿下だった。


ユリウス様。


クロード様。


二人の名前を心の中で並べて、私は小さく息を吐いた。


違う人なのに、どこか似ている。


どちらも、私が一番苦しかった時に、手を差し伸べてくれた。


それはきっと、幸運なのだと思った。


ようやく私にも、幸運が来たのだと。


私は銀栞の裏の文字を、もう一度だけ指でなぞった。


「はい」


誰にともなく、小さく答える。


私の物語は、まだ続いている。


そう思いながら、私は深く眠った。

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