第3話 火のある部屋で眠っていい
王宮の客室は、静かだった。
白い壁。淡い金の縁取りが施された天井。大きな窓には厚い夜色の帳が下ろされ、暖炉には火が入っている。
火のある部屋で眠っていいのだと気づくまで、少し時間がかかった。
「お召し替えを」
侍女がやわらかな声で言った。
名はマリー。クロード殿下が用意してくださった人だという。年は私より少し上で、穏やかな目をしていた。
私は頷こうとして、けれどすぐには動けなかった。
「申し訳ありません」
反射的に謝る。
マリーは少しだけ目を見開いた。
「謝られることなどございません。今夜は、とても大変な夜でした」
大変な夜。
そう言われて、ようやく喉の奥が震えた。
婚約を破棄された。広間で責められた。義妹の嘘が暴かれた。義母と父の罪も明らかになった。クロード殿下が、私を連れ出してくださった。
あまりに多くのことが起こって、心が追いついていなかった。
「お湯をご用意しております。まずは、お体を温めましょう」
マリーがそう言って、私の髪に触れようとした。
その瞬間、私は小さく肩を揺らした。
「失礼いたしました。痛みますか」
「いえ。違うのです。少し、驚いただけで」
優しく触れられることに、慣れていなかった。
レナード家で髪に触れられる時は、たいてい叱られる時だった。
リリアはよく、私の髪飾りを取り上げた。
お母様が残してくれた白百合の髪飾り。
「これは私の方が似合いますわ」
そう言って笑うリリアに、義母はいつも微笑んだ。
「クロエ、妹に譲ってあげなさい。姉なのだから」
姉なのだから。
その言葉が出るたびに、私は何かを失った。
部屋。ドレス。髪飾り。菓子。暖炉の近くの席。母の小箱。父と話す時間。
全部、姉なのだから。
湯浴みを終え、柔らかな夜着を着せてもらうと、鏡の中の私は知らない人のように見えた。
やつれている。
頬は少しこけ、目の下には薄い影がある。
けれど、マリーが丁寧に髪を梳いてくれたおかげで、いつもよりずっとましに見えた。
「軽いお食事をお持ちします」
「いえ、私は」
言いかけて、腹の奥が小さく鳴った。
恥ずかしさで顔が熱くなる。
マリーは聞こえなかったふりをしてくれた。
「温かいスープがございます。蜂蜜を少し入れたミルクも」
「蜂蜜は、少しだけで」
思わず言ってしまい、私はすぐに口を押さえた。
「申し訳ありません。何でもいただきます」
「殿下より、蜂蜜は半匙までとうかがっております」
私は、言葉を失った。
蜂蜜は嫌いではない。
けれど、多すぎると喉に残る。子供の頃、お母様が作ってくれたミルクはいつも半匙だけだった。それが好きだった。
そんなことを、誰にも話した覚えはない。
「殿下が……?」
「はい。甘すぎるものはお疲れのお体に障るかもしれない、と」
甘さは、ちょうどよかった。
ちょうどよすぎて、私は少しだけ怖くなった。
自分でも忘れていた好みを、どうしてこの方はこんなふうに差し出せるのだろう。
けれど、怖いと思うより先に、体が温まってしまった。
だから私は、その怖さを、優しさと呼ぶことにした。
温かなスープを飲むと、体の奥がほどけていった。
半分ほどで手が止まる。
食べていいのか、まだ分からなかった。
「クロエ様」
マリーの声で、私は我に返った。
「もう少し召し上がれますか」
「……食べても、よいのですか」
口にしてから、自分で驚いた。
マリーは一瞬、悲しそうな顔をした。
けれどすぐに、優しく答えた。
「もちろんでございます」
私はスプーンを握り直し、ゆっくり続きを食べた。
温かいものを、最後まで食べた。
それだけで、泣きそうになった。
食事が終わる頃、扉が静かに叩かれた。
マリーが応対に出る。
低い声が聞こえた。
「無理なら、会わなくていい」
クロード殿下の声だった。
私は思わず立ち上がった。
「お会いします」
扉が開く。
クロード殿下は、夜会の礼装から簡素な上着に着替えていた。それでも、立っているだけで部屋の空気が整うような方だった。
殿下は部屋に入ると、私から少し離れた位置で足を止めた。
近づきすぎない。逃げ道を塞がない。
その気遣いが、私にはありがたかった。
ありがたいはずなのに、部屋も、食事も、侍女も、距離までも、あまりに整いすぎていた。
私が怖がることまで、先に知っていたみたいに。
そう思って、すぐに打ち消した。
そんなはずはない。
クロード殿下は、私を助けてくださったのだから。
「少しは食べられた?」
「はい。とても、おいしかったです」
「よかった」
クロード殿下は本当に安堵したように微笑んだ。
私は椅子のそばに立ったまま、深く頭を下げた。
「殿下。本日は、ありがとうございました」
「礼はいらない」
「でも、私は」
「クロエ」
名前を呼ばれて、胸が跳ねた。
殿下は静かに言った。
「今夜、君は何度も謝った。礼も言った。けれど、怒っていない」
「怒る、ですか」
「そう。怒っていい」
私は首を振った。
「私には、そのような資格は」
「あるよ」
即座に返された。
「君には怒る資格がある。奪われたものを、奪われたと言う資格がある。痛かったことを、痛かったと言う資格がある」
痛かった。
その言葉が、心のどこかに触れた。
私は唇を噛んだ。
「分かりません」
「うん」
「怒り方が、分かりません」
「それでもいい」
クロード殿下は、私の前の椅子を示した。
「座って」
私は言われるままに座った。
殿下は向かいには座らず、少し斜めの椅子に腰を下ろした。
真正面から見つめられないようにしてくださっているのだと、少し遅れて気づいた。
「君の母君の遺品を保全した」
殿下はそう言った。
「髪飾り、小箱、手紙、日記。それから、信託財産に関する証書も」
お母様の日記。
私は顔を上げた。
「日記が、あったのですか」
「うん。夫人の私室に隠されていた」
「義母の」
「君のものだ」
その言葉に、胸が痛んだ。
君のもの。
そんなふうに言われたことが、どれほど久しぶりだろう。
「明日、見られるようにする。今夜は休んだ方がいい」
「はい」
「それから、レナード家には戻らなくていい」
私は息を止めた。
戻らなくていい。
その言葉は、自由に似ていた。
けれど同時に、怖かった。
戻らなくていいのなら、私はどこへ行けばいいのだろう。
「私は……これから、どうすれば」
声が震えた。
クロード殿下は、私を急かさなかった。
「まず眠る」
あまりに真面目な声だったので、私は少しだけ瞬きをした。
「眠る、のですか」
「そう。温かい部屋で、扉に鍵をかけて、誰にも起こされずに眠る」
「それが、これからすることですか」
「今夜はそれだけでいい」
殿下の言い方があまりにも当然だったので、私は思わず小さく笑ってしまった。
笑ったあとで、自分が笑ったことに驚いた。
クロード殿下も、少しだけ目を細めた。
「よかった」
「何がでしょう」
「君が笑った」
ただそれだけのことを、本当に嬉しそうに言う。
私は胸の奥が苦しくなった。
「殿下は、優しすぎます」
「そうかな」
「はい。私には、もったいないほど」
クロード殿下の表情が、ほんのわずかに曇った。
「もったいない、とは言わないで」
その声は優しいのに、どこか切実だった。
「君は、受け取っていい」
受け取っていい。
その言葉を、私はすぐには信じられなかった。
けれど信じたいと思った。
信じてもいいのではないかと、思ってしまった。
「……はい」
私が頷くと、殿下は安堵したように息を吐いた。
「明日は、医師に診てもらおう。体に痛むところは?」
「ありません」
答えると、殿下が少しだけ眉を寄せた。
私は慌てて言い直す。
「少し、肩が重いくらいで。それから、手が荒れています。でも、これは洗濯を手伝っていたので」
言いながら、私は遅れて気づいた。
普通、令嬢は義妹のドレスを洗わない。
クロード殿下は、私の手を見た。
私は反射的に隠そうとした。
けれど、殿下は触れなかった。
「薬を用意させる」
「大げさです」
「大げさじゃない。君の痛みを、小さなものとして扱いたくない」
私は何も言えなくなった。
「おやすみ、クロエ」
「おやすみなさいませ、殿下」
「クロードでいい」
私は固まった。
「そ、それは恐れ多いです」
「では、いつか」
殿下は無理に迫らなかった。
立ち上がり、扉の方へ向かう。
その背中を見て、私は思わず声をかけた。
「あの」
殿下が振り返る。
「今夜、どうして私を助けてくださったのですか」
クロード殿下は少しだけ黙った。
暖炉の火が、小さく爆ぜる。
「君が、助けを求めていたから」
「私は、何も言っていません」
「言っていたよ」
殿下は静かに言った。
「ずっと」
その言葉の意味は、分からなかった。
けれど、不思議と涙が出そうになった。
私の声にならなかった声を、この人だけは聞いてくれていたのだと思った。
クロード殿下が去ったあと、私は寝台に入った。
柔らかな布団。暖炉の火。鍵のかかった扉。誰も私を起こさない夜。
眠れるはずがないと思った。
けれど体は、思っていたよりずっと疲れていたらしい。
枕元の小さな卓に、マリーが銀栞を置いてくれていた。
古い小箱から取り戻された、白百合の銀栞。
私はそれを手に取った。
白百合の細工。
裏に刻まれた文字。
泣き終わったら、続きを読めばいい。
――ユリウス
その文字を見た瞬間、十年前の白百合庭園が、胸の奥に戻ってきた。
白い花。迷子になった私。奪われたハンカチ。右手の甲ににじんだ、小さな血。
そして、泣いていた私を見つけてくれた王子様。
私は銀栞を握りしめたまま、目を閉じる。
あの日も、物語は終わらなかった。
今夜も、きっと。
そう思いながら、私は十年ぶりのように深く眠った。




