第2話 皇太子殿下は、嘘をひとつずつほどいた
「これは、僕が十年待った夜だ」
クロード皇太子殿下がそう言った瞬間、大広間の空気が凍った。
十年。
なぜ、十年なのだろう。
私には分からなかった。
けれど、殿下の手は温かかった。白い手袋に包まれたその手が、私の震える指を逃がさないように、けれど強く握りすぎないように支えてくださっていた。
その優しさが、なぜか少し怖かった。
怖いと思うことが、申し訳なかった。
「で、殿下」
エドガー様が引きつった笑みを浮かべる。
「何か誤解があるようです。私はただ、クロエの罪を明らかにしようと」
「罪?」
クロード殿下が、初めてエドガー様の方を見た。
穏やかな声だった。
けれど、広間にいた誰もが、その声に含まれた冷たさを聞いた。
「では、ひとつずつほどこう」
そう言って、殿下は義妹を見た。
「リリア・レナード嬢」
リリアの肩が跳ねた。
「君は、クロエ嬢にドレスを裂かれ、招待状を隠され、エドガー・バルクス令息に宛てた手紙まで偽造されたと訴えた」
「は、はい……。姉様は、私がエドガー様と親しくしているのを妬んで」
「すべて、調べはついている」
その一言で、リリアの涙が止まった。
「ドレスを裂いたのは君の侍女。招待状の件はそもそも成立しない。夜会の招待は当主宛てに同伴者名簿つきで送られるものだからね。手紙の筆跡も、クロエ嬢のものではない」
「そ、そんな」
「仕立屋も、侍女も、文書鑑定官も、すでに証言している」
リリアの唇が震えた。
私は、それでも何も言えなかった。
リリアは、いつもそうだった。
私にだけ聞こえる声で棘を刺し、誰かが来ると涙を浮かべる。父の前では可憐な娘になり、義母の前ではかわいそうな妹になり、エドガー様の前では守るべき女になった。
私は一度も勝てなかった。
けれど今、クロード殿下は、リリアの涙を見ても揺らがなかった。
「違います、違うのです。私は、姉様にずっと虐げられてきて、だから少しだけ、仕返しをしたくなって」
「リリア」
義母が低く名前を呼んだ。
その声には、焦りが混じっていた。
リリアは慌てて口を押さえる。
クロード殿下は、今度は義母へ視線を向けた。
「レナード男爵夫人」
義母の顔から、作り物の悲しみが消えた。
「はい、殿下」
「君は先ほど、クロエ嬢がリリア嬢を日常的に虐げていたと証言したね」
「ええ。母として、つらいことではございますが」
「母として」
クロード殿下が、その言葉を繰り返した。
不思議な響きだった。
「では、母として、クロエ嬢の母君の遺産をどこへ移したのか説明できるか」
義母の扇が止まった。
父が顔を上げる。
「殿下、それは家の内々のことで」
「内々で済む金額ではない」
クロード殿下の声が少しだけ低くなった。
「クロエ嬢の母君は、娘のために信託財産を残している。だが、それは五年前から少しずつ取り崩され、夫人とリリア嬢の衣装代、宝飾品代、社交費に流れていた」
義母はすぐに言った。
「わ、私は存じません。家計は夫が」
「帳簿も、支払指示書も、宝飾店の証言もある」
黒衣の近衛が、書類の束を掲げた。
広間のざわめきが、今度は明らかな非難へ変わった。
私は、ただ立っていた。
お母様の遺産。
そんなものがあったのか。
私は何も知らなかった。
母の形見だと思っていた小箱も、髪飾りも、手紙も、いつの間にか義母の管理になっていた。私はそれを、父が決めたことだから仕方ないのだと思っていた。
母は、私に何かを残してくれていた。
なのに、私は知らなかった。
「クロエ」
クロード殿下の声がした。
私ははっと顔を上げる。
「今は、倒れないで」
「……はい」
「あと少しで終わる」
あと少し。
その言葉は、まるで長い雨の終わりのように聞こえた。
でも同時に、殿下は雨がいつ降り始め、いつ止むのかまで知っていたようにも聞こえた。
私は、その考えをすぐに打ち消した。
そんなはずはない。
この方は、私を助けてくださっている。
クロード殿下は、最後に父を見た。
「レナード男爵」
父は震える膝で一歩前に出た。
「は、はい」
「君は娘を守らなかった」
その言葉は、どの証拠よりもまっすぐだった。
父の口が開き、閉じる。
「家のため、だったのです。レナード家は傾いておりました。クロエがバルクス家へ嫁げば、家は」
「その婚約を利用して、君はクロエ嬢の財産を穴埋めに使った。さらに、バルクス家との婚約契約には、クロエ嬢本人の署名欄がない」
私は息を止めた。
署名。
確かに、婚約の時、父は言った。
お前はまだ社交に慣れていない。書類は私が済ませておく、と。
私は逆らわなかった。
家のためだと言われたから。
私が我慢すればいいのだと思ったから。
「君が代筆したものだね」
父は何も言えなかった。
それが答えだった。
クロード殿下は、私を見た。
「クロエ嬢」
「はい」
「君は、この婚約を望んだのか」
私は答えられなかった。
望んだのか。
家を出られると思った。
父に認めてもらえると思った。
義母とリリアから離れられると思った。
でも、エドガー様と結婚したかったわけではない。
私は唇を震わせた。
「私は……」
広間中が私を見ている。
怖かった。
また責められる気がした。
けれど、クロード殿下は静かに待っていた。
急かさなかった。
私の言葉が出るまで、何も言わずに待っていた。
だから、私はようやく言えた。
「私は、ただ、あの家を出たかったのです」
声は小さかった。
けれど今度は、消えなかった。
「それだけでした」
クロード殿下の瞳が、わずかに揺れた。
怒りではなかった。
憐れみでもなかった。
もっと深い、何か。
「そうか」
殿下はそう言った。
「よく耐えたね」
その瞬間、私はもう一度泣きそうになった。
けれど泣かなかった。
泣いてしまえば、ここまで立っていた自分が崩れてしまいそうだったから。
クロード殿下は、近衛へ命じた。
「エドガー・バルクス令息、リリア・レナード嬢、レナード男爵夫人を拘束。レナード男爵は財産横領および婚約契約偽造の疑いで取り調べる。バルクス家には正式な調査命令を出す」
「お待ちください!」
エドガー様が叫んだ。
「私は騙されていただけです! リリア嬢に、クロエが悪女だと聞かされて」
「クロエ嬢を公衆の面前で辱めることを選んだのは君だ」
クロード殿下は冷たく言った。
「その程度の判断もできない者に、貴族の名は重い」
エドガー様が膝から崩れた。
リリアは泣き叫び、義母は何かを訴え、父はただ呆然としていた。
私は、それを遠くの出来事のように見ていた。
ざまあみろ、とは思えなかった。
嬉しい、とも違った。
ただ、長い間、胸の上に置かれていた石が、ひとつずつ取り除かれていくようだった。
クロード殿下は私の前に立った。
「クロエ嬢」
「はい」
「君は今夜、レナード家には戻らない」
私は目を見開いた。
「ですが」
「王宮の客室を用意してある。侍女も医師も、信用できる者だけを置く。君の母君の遺品も、すでに保全させている」
すでに。
その言葉に、また小さな違和感が生まれた。
あまりにも、すべてが整っていた。
まるで、私が今夜こうなることを、ずっと前から知っていたみたいに。
「……殿下は」
私は思わず尋ねた。
「どうして、そこまで」
クロード殿下は、少しだけ困ったように微笑んだ。
「君を見ていたから」
「私を、ですか」
「そう」
彼は、私の名前を呼ぶ前のように、静かに息を整えた。
「ずっと」
その言葉に、胸が鳴った。
怖いとは思わなかった。
いいえ。
少しだけ、怖かった。
けれど、それ以上に、こんな私を見ていてくれた人がいたのだと信じたくなった。
クロード殿下は、私に外套をかけてくれた。
広間の視線から私を隠すように。
「行こう、クロエ」
初めて、殿下が私を名前だけで呼んだ。
クロエ。
クロード。
少し似た響きの名前。
その声で呼ばれると、不思議と、自分の名前が少しだけ温かいものに変わったような気がした。
「はい」
私は頷いた。
その夜、私はレナード家を出た。
振り返らなかった。
振り返れば、また戻らなくてはいけない気がしたから。
王宮へ向かう馬車の中で、私はようやく息を吐いた。
窓の外には、白百合夜会の灯が遠ざかっていく。
クロード殿下は向かいの席に座り、何も聞かなかった。
私は膝の上で指を重ねる。
そこに、銀栞はなかった。
今夜の支度の時、義妹に見つからないよう、古い小箱の奥に隠したままだった。
あの日の王子様がくれた、私の続きを信じるための栞。
それを思い出して、胸が少し痛んだ。
クロード殿下が静かに言った。
「大丈夫。失くしていないよ」
私は顔を上げた。
「え?」
「君の大切なものは、ちゃんと守ってある」
馬車の揺れる音だけが聞こえた。
殿下は、優しく微笑んでいた。
取り戻してくださったのだ。
そう思った。
そう思うことにした。
「もう、何も奪わせない」
その言葉に、私は救われたような気がした。
だから、その時は考えなかった。
なぜ殿下が、私の銀栞のことを知っていたのかを。




