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虐げられ令嬢は皇太子の愛に救われ、あの日の王子様に別れを告げた  作者: 堀吉 蔵人


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2/6

第2話 皇太子殿下は、嘘をひとつずつほどいた

「これは、僕が十年待った夜だ」


クロード皇太子殿下がそう言った瞬間、大広間の空気が凍った。


十年。


なぜ、十年なのだろう。


私には分からなかった。


けれど、殿下の手は温かかった。白い手袋に包まれたその手が、私の震える指を逃がさないように、けれど強く握りすぎないように支えてくださっていた。


その優しさが、なぜか少し怖かった。


怖いと思うことが、申し訳なかった。


「で、殿下」


エドガー様が引きつった笑みを浮かべる。


「何か誤解があるようです。私はただ、クロエの罪を明らかにしようと」


「罪?」


クロード殿下が、初めてエドガー様の方を見た。


穏やかな声だった。


けれど、広間にいた誰もが、その声に含まれた冷たさを聞いた。


「では、ひとつずつほどこう」


そう言って、殿下は義妹を見た。


「リリア・レナード嬢」


リリアの肩が跳ねた。


「君は、クロエ嬢にドレスを裂かれ、招待状を隠され、エドガー・バルクス令息に宛てた手紙まで偽造されたと訴えた」


「は、はい……。姉様は、私がエドガー様と親しくしているのを妬んで」


「すべて、調べはついている」


その一言で、リリアの涙が止まった。


「ドレスを裂いたのは君の侍女。招待状の件はそもそも成立しない。夜会の招待は当主宛てに同伴者名簿つきで送られるものだからね。手紙の筆跡も、クロエ嬢のものではない」


「そ、そんな」


「仕立屋も、侍女も、文書鑑定官も、すでに証言している」


リリアの唇が震えた。


私は、それでも何も言えなかった。


リリアは、いつもそうだった。


私にだけ聞こえる声で棘を刺し、誰かが来ると涙を浮かべる。父の前では可憐な娘になり、義母の前ではかわいそうな妹になり、エドガー様の前では守るべき女になった。


私は一度も勝てなかった。


けれど今、クロード殿下は、リリアの涙を見ても揺らがなかった。


「違います、違うのです。私は、姉様にずっと虐げられてきて、だから少しだけ、仕返しをしたくなって」


「リリア」


義母が低く名前を呼んだ。


その声には、焦りが混じっていた。


リリアは慌てて口を押さえる。


クロード殿下は、今度は義母へ視線を向けた。


「レナード男爵夫人」


義母の顔から、作り物の悲しみが消えた。


「はい、殿下」


「君は先ほど、クロエ嬢がリリア嬢を日常的に虐げていたと証言したね」


「ええ。母として、つらいことではございますが」


「母として」


クロード殿下が、その言葉を繰り返した。


不思議な響きだった。


「では、母として、クロエ嬢の母君の遺産をどこへ移したのか説明できるか」


義母の扇が止まった。


父が顔を上げる。


「殿下、それは家の内々のことで」


「内々で済む金額ではない」


クロード殿下の声が少しだけ低くなった。


「クロエ嬢の母君は、娘のために信託財産を残している。だが、それは五年前から少しずつ取り崩され、夫人とリリア嬢の衣装代、宝飾品代、社交費に流れていた」


義母はすぐに言った。


「わ、私は存じません。家計は夫が」


「帳簿も、支払指示書も、宝飾店の証言もある」


黒衣の近衛が、書類の束を掲げた。


広間のざわめきが、今度は明らかな非難へ変わった。


私は、ただ立っていた。


お母様の遺産。


そんなものがあったのか。


私は何も知らなかった。


母の形見だと思っていた小箱も、髪飾りも、手紙も、いつの間にか義母の管理になっていた。私はそれを、父が決めたことだから仕方ないのだと思っていた。


母は、私に何かを残してくれていた。


なのに、私は知らなかった。


「クロエ」


クロード殿下の声がした。


私ははっと顔を上げる。


「今は、倒れないで」


「……はい」


「あと少しで終わる」


あと少し。


その言葉は、まるで長い雨の終わりのように聞こえた。


でも同時に、殿下は雨がいつ降り始め、いつ止むのかまで知っていたようにも聞こえた。


私は、その考えをすぐに打ち消した。


そんなはずはない。


この方は、私を助けてくださっている。


クロード殿下は、最後に父を見た。


「レナード男爵」


父は震える膝で一歩前に出た。


「は、はい」


「君は娘を守らなかった」


その言葉は、どの証拠よりもまっすぐだった。


父の口が開き、閉じる。


「家のため、だったのです。レナード家は傾いておりました。クロエがバルクス家へ嫁げば、家は」


「その婚約を利用して、君はクロエ嬢の財産を穴埋めに使った。さらに、バルクス家との婚約契約には、クロエ嬢本人の署名欄がない」


私は息を止めた。


署名。


確かに、婚約の時、父は言った。


お前はまだ社交に慣れていない。書類は私が済ませておく、と。


私は逆らわなかった。


家のためだと言われたから。


私が我慢すればいいのだと思ったから。


「君が代筆したものだね」


父は何も言えなかった。


それが答えだった。


クロード殿下は、私を見た。


「クロエ嬢」


「はい」


「君は、この婚約を望んだのか」


私は答えられなかった。


望んだのか。


家を出られると思った。


父に認めてもらえると思った。


義母とリリアから離れられると思った。


でも、エドガー様と結婚したかったわけではない。


私は唇を震わせた。


「私は……」


広間中が私を見ている。


怖かった。


また責められる気がした。


けれど、クロード殿下は静かに待っていた。


急かさなかった。


私の言葉が出るまで、何も言わずに待っていた。


だから、私はようやく言えた。


「私は、ただ、あの家を出たかったのです」


声は小さかった。


けれど今度は、消えなかった。


「それだけでした」


クロード殿下の瞳が、わずかに揺れた。


怒りではなかった。


憐れみでもなかった。


もっと深い、何か。


「そうか」


殿下はそう言った。


「よく耐えたね」


その瞬間、私はもう一度泣きそうになった。


けれど泣かなかった。


泣いてしまえば、ここまで立っていた自分が崩れてしまいそうだったから。


クロード殿下は、近衛へ命じた。


「エドガー・バルクス令息、リリア・レナード嬢、レナード男爵夫人を拘束。レナード男爵は財産横領および婚約契約偽造の疑いで取り調べる。バルクス家には正式な調査命令を出す」


「お待ちください!」


エドガー様が叫んだ。


「私は騙されていただけです! リリア嬢に、クロエが悪女だと聞かされて」


「クロエ嬢を公衆の面前で辱めることを選んだのは君だ」


クロード殿下は冷たく言った。


「その程度の判断もできない者に、貴族の名は重い」


エドガー様が膝から崩れた。


リリアは泣き叫び、義母は何かを訴え、父はただ呆然としていた。


私は、それを遠くの出来事のように見ていた。


ざまあみろ、とは思えなかった。


嬉しい、とも違った。


ただ、長い間、胸の上に置かれていた石が、ひとつずつ取り除かれていくようだった。


クロード殿下は私の前に立った。


「クロエ嬢」


「はい」


「君は今夜、レナード家には戻らない」


私は目を見開いた。


「ですが」


「王宮の客室を用意してある。侍女も医師も、信用できる者だけを置く。君の母君の遺品も、すでに保全させている」


すでに。


その言葉に、また小さな違和感が生まれた。


あまりにも、すべてが整っていた。


まるで、私が今夜こうなることを、ずっと前から知っていたみたいに。


「……殿下は」


私は思わず尋ねた。


「どうして、そこまで」


クロード殿下は、少しだけ困ったように微笑んだ。


「君を見ていたから」


「私を、ですか」


「そう」


彼は、私の名前を呼ぶ前のように、静かに息を整えた。


「ずっと」


その言葉に、胸が鳴った。


怖いとは思わなかった。


いいえ。


少しだけ、怖かった。


けれど、それ以上に、こんな私を見ていてくれた人がいたのだと信じたくなった。


クロード殿下は、私に外套をかけてくれた。


広間の視線から私を隠すように。


「行こう、クロエ」


初めて、殿下が私を名前だけで呼んだ。


クロエ。


クロード。


少し似た響きの名前。


その声で呼ばれると、不思議と、自分の名前が少しだけ温かいものに変わったような気がした。


「はい」


私は頷いた。


その夜、私はレナード家を出た。


振り返らなかった。


振り返れば、また戻らなくてはいけない気がしたから。


王宮へ向かう馬車の中で、私はようやく息を吐いた。


窓の外には、白百合夜会の灯が遠ざかっていく。


クロード殿下は向かいの席に座り、何も聞かなかった。


私は膝の上で指を重ねる。


そこに、銀栞はなかった。


今夜の支度の時、義妹に見つからないよう、古い小箱の奥に隠したままだった。


あの日の王子様がくれた、私の続きを信じるための栞。


それを思い出して、胸が少し痛んだ。


クロード殿下が静かに言った。


「大丈夫。失くしていないよ」


私は顔を上げた。


「え?」


「君の大切なものは、ちゃんと守ってある」


馬車の揺れる音だけが聞こえた。


殿下は、優しく微笑んでいた。


取り戻してくださったのだ。


そう思った。


そう思うことにした。


「もう、何も奪わせない」


その言葉に、私は救われたような気がした。


だから、その時は考えなかった。


なぜ殿下が、私の銀栞のことを知っていたのかを。

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