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虐げられ令嬢は皇太子の愛に救われ、あの日の王子様に別れを告げた  作者: 堀吉 蔵人


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第1話 婚約破棄の夜に、私は終わった

 

 王国歴五二八年、春。


 白百合夜会の大広間で、クロエ・レナードは婚約者に捨てられた。


「クロエ・レナード。私は今この場をもって、君との婚約を破棄する」


 その声は、思っていたよりもよく響いた。


 金の燭台。磨き上げられた大理石の床。貴族たちの香水と、甘い葡萄酒の匂い。楽団は演奏を止め、踊っていた人々は扇の陰からこちらを見ている。


 誰も、助けてはくれなかった。


 私の婚約者であるエドガー・バルクス子爵令息は、私を見下ろしていた。隣には、私の義妹であるリリアがいる。淡い桃色のドレスを着た彼女は、涙に濡れた瞳でエドガー様の腕にすがっていた。


「姉様、私、本当は黙っていようと思ったのです」


 リリアが震える声で言った。


「でも、もう耐えられなくて……。私のドレスを裂いたことも、招待状を隠したことも、エドガー様にひどい手紙を送ったことも、全部、姉様が……」


「私は、そんなことはしていません」


 私の声は小さかった。


 けれど、はっきり言ったつもりだった。


 エドガー様は鼻で笑った。


「まだ言い逃れをするのか。証言は揃っている。君の義母君も、使用人たちも、皆がリリア嬢の被害を認めている」


 義母。


 その言葉だけで、胃の奥が冷えた。


 お母様が亡くなってから、レナード家に来た人。父の新しい妻。美しい笑顔で客を迎え、私にだけ冷たい食事を出す人。


 その義母が、今も少し離れた場所で、悲しげに目元を押さえている。


 父は、何も言わなかった。


「クロエ」


 父がようやく口を開いた。


 私はほんの少しだけ、期待してしまった。


「見苦しい真似はやめなさい。家名をこれ以上汚すな」


 その一言で、私は自分の立っている床が消えたような気がした。


 ああ。


 やっぱり。


 私は家族ではなかったのだ。


「バルクス家は、これ以上レナード家の不始末に付き合うつもりはない」


 エドガー様は勝ち誇ったように言った。


「だが、私は寛大だ。リリア嬢に罪はない。彼女は君に虐げられながらも、ずっと耐えてきた。私は彼女を守りたい」


 リリアが頬を染める。


 広間のあちこちで、かすかなざわめきが広がった。


 婚約破棄。そして、義妹への乗り換え。


 よくある醜聞だ。けれど、醜聞の中心に立たされると、人は案外、何も考えられなくなる。


 私はただ、指先を握りしめていた。


 この婚約だけが、希望だった。


 愛などなかった。エドガー様が私を好いていないことも知っていた。けれど、嫁げばレナード家を出られる。義母とリリアのいる家から離れられる。傾きかけた家を救った娘として、せめて父に一度くらいは認めてもらえるかもしれない。


 そう思っていた。


 そう思わなければ、耐えられなかった。


 朝食の皿が私だけ薄い粥だった日も。


 お母様の形見の髪飾りを、リリアが笑って身につけていた日も。


 冬の夜に暖炉のない部屋へ追いやられた日も。


「姉様は陰気だから、誰にも愛されないのですわ」と言われた日も。


 それでも、私は終わっていないと思っていた。


 古い小箱の奥に、銀の栞があったから。


 白百合の細工が施された、小さな栞。


 裏に刻まれた言葉を、私は何度も指でなぞった。


 泣き終わったら、続きを読めばいい。


 その言葉だけが、ずっと胸の中に残っていた。


 だから私は、どれほど惨めでも、自分の物語はまだ終わっていないのだと思えた。


 けれど。


 今、終わった。


「クロエ・レナード」


 エドガー様の声が、もう一度響く。


「君はリリア嬢を虐げ、私を欺き、レナード家の名を汚した。よって、私は君との婚約を破棄し――」


「そこまでにしていただこうか」


 その声は、静かだった。


 なのに、広間の空気が変わった。


 人々が一斉に扉の方を見る。


 開かれた大扉の向こうから、一人の青年が歩いてきた。


 黒に近い濃紺の礼装。胸元には、王家の白百合紋章。銀の髪は燭台の光を受けて淡く輝き、冷たいほど整った顔立ちに、穏やかな微笑だけが浮かんでいた。


 クロード皇太子殿下。


 病を理由に表舞台を退いたユリウス第一王子に代わり、立太子された弟君。


 少なくとも、世間ではそう噂されていた。


 王家の方々を、民が近くで見ることはほとんどない。私もクロード殿下を直接拝見するのは、今夜が初めてだった。


 兄弟だからだろうか。


 目の前の方には、記憶の中の王子様と、どこか似たものがあった。


 この国の次代の王。


 私など、本来なら同じ広間にいることさえ畏れ多い方だった。


 その方が、まっすぐ私の方へ歩いてくる。


「クロエ・レナード嬢」


 殿下は、私の前で足を止めた。


「遅くなってすまない」


 なぜ。


 どうして。


 そう尋ねることもできずに、私はただ殿下を見上げた。


 初めて近くで聞くはずの声だった。


 けれど、その声はなぜか、胸の奥の古い痛みに触れた。


 怖い、と思った。


 どうしてこの方は、私の名前をこんなふうに呼ぶのだろう。


 どうして、私が待っていた言葉を知っているような顔をするのだろう。


 けれど、その怖さより先に、救われたいと思ってしまった。


 クロード殿下は私に手を差し伸べた。


「君を傷つけたものは、僕がすべて取り除く」


 その言葉は、あまりに優しかった。


 だから私は、怖いと思った自分を恥じた。


 この方は、私を助けに来てくださったのだ。


 エドガー様が青ざめた顔で叫ぶ。


「で、殿下。これは私とクロエの問題で――」


「いいや」


 クロード殿下は、振り返りもしなかった。


「これは、僕が十年待った夜だ」


 十年。


 その言葉に、胸が小さく震えた。


 けれど意味は分からなかった。


 私はただ、差し出された手を見つめていた。


 白い手袋に包まれた、優しい手。


 その手が、終わったはずの物語の続きを示しているように見えた。


 私は震える指で、殿下の手を取った。

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