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虐げられ令嬢は皇太子の愛に救われ、あの日の王子様に別れを告げた  作者: 堀吉 蔵人


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第10話 ユリウスという名を殺す

ユリウスという名は、クロエの隣に置くには遠すぎた。


クロエ。


ユリウス。


紙に並べるたび、そこには王宮の廊下ほどの距離があった。


下級貴族の娘と、王家の第一王子。


白百合庭園で泣いていた少女と、銀貨に横顔を刻まれる者。


呼ばれる側と、見上げられる側。


それでは駄目だった。


僕は、彼女の隣に置かれる名が欲しかった。


彼女が怯えず、見上げず、ただ口にできる名。


泣いたあと、まだ涙の残る声で呼んでも遠くならない名。


僕の名を呼ぶ時に、王宮の高さを思い出さなくて済む名。


クロエ。


クロード。


初めて紙にそう並べた夜、僕はしばらく動けなかった。


近い。


似ている。


同じ音で始まり、けれど同じではない。


まるで最初から、隣に置かれるための名のようだった。


美しいと思った。


あまりにも美しくて、紙を捨てられなかった。


その紙は、今も机の奥にある。


何度も折り目をつけ、何度も開き、何度も二つの名を見た。


クロエ。


クロード。


紙の上では、僕たちはもう隣にいる。


けれど現実のクロエは、遠い男爵家の暗い部屋で、ユリウスの銀栞を握っていた。


クロードの隣ではない。


ユリウスの記憶の中にいた。


だから、ユリウスを捨てる理由としては、それだけで十分だった。


臣下たちは、王太子教育課程への移行だと思った。


貴族たちは、継承順位確定に伴う名乗り直しだと思った。


民は、新しい時代の呼び名だと思った。


どれも間違いではない。


ただ、本当の理由ではなかった。


僕は、クロエに呼ばれる名が欲しかった。


それだけだ。


ただ、それだけのために、ユリウスという名を殺した。


最初に「クロード」と呼ばれた日のことを覚えている。


王宮の廊下だった。


侍従長が、少し緊張した顔で膝をつき、新しい名で僕を呼んだ。


クロード殿下。


その音を聞いた瞬間、僕は笑いそうになった。


嬉しかった。


けれど、それだけではなかった。


この名を、いつかクロエが呼ぶ。


そう思ったら、喉の奥が焼けるようだった。


僕は返事をした。


いつも通りに。


穏やかに。


王族らしく。


けれど本当は、その場で何度でも呼ばせたかった。


クロード。


クロード。


クロード。


違う。


僕が聞きたかったのは侍従長の声ではない。


臣下の声ではない。


民の歓声でもない。


クロエの声だった。


彼女の口の中で、僕の名が形になる瞬間を待っていた。


十年。


十年も。


けれど、名だけを変えても足りない。


ユリウスは、僕の外側にも残っていた。


王宮の肖像画に。


祝宴の記録に。


子供たちの歌に。


そして、市場の銀貨に。


クロエは、ユリウス王子の銀貨を一枚持っていた。


十年前の春、王都の菓子屋で釣銭として受け取ったものだ。


その報告を聞いた時、僕はしばらく黙っていた。


彼女は、それを小箱にしまったという。


あの日の王子様の代わりのように。


僕はそれが嫌だった。


とても嫌だった。


報告書のその一文を読んだ夜、僕は眠れなかった。


クロエが小箱を開ける。


銀栞に触れる。


それから、ユリウスの横顔が刻まれた銀貨を見る。


その時、彼女は何を思うのだろう。


白百合庭園。


王子様。


助けてくれた人。


ありがとう。


会いたい。


もう一度、会えたら。


そう思うのだろうか。


誰に?


ユリウスに。


僕ではない名に。


過去の僕だと言えば、それで済むのかもしれない。


けれど、済まなかった。


過去の自分だから許せるなどということはない。


むしろ、一番許せなかった。


十年前のユリウスは、何も知らない顔で彼女に栞を渡した。


たった一度、綺麗な言葉を渡した。


それだけで、クロエの十年を得た。


ずるいと思った。


僕は十年を使ったのに。


彼女のために名を変え、記録を集め、世界を整えたのに。


あの幼い王子は、たった一日の記憶だけで、クロエの胸の中に居座っていた。


許せるはずがない。


クロエが、つらい夜に銀栞を握るのはよかった。


あれは僕が渡した言葉だから。


けれど、銀貨は違う。


あれはユリウスの顔だ。


民が見上げる王子の横顔だ。


彼女が小さな手で握るには、あまりにも遠い。


クロエの手の中にあるべきなのは、過去のユリウスではない。


今のクロードだ。


だから、ユリウス王子の銀貨は消すことにした。


市場から。


教会の寄付箱から。


貴族家の金庫から。


菓子屋の釣銭から。


子供の貯金箱から。


国中の銀貨を回収し、溶かし、新しい型へ流し込ませた。


財務卿は費用を気にした。


造幣局長は手順を気にした。


そして、古い型を管理していた老職人だけが、別のものを気にしていた。


「本当に、すべて溶かすのでございますか」


彼は、そう尋ねた。


費用の話ではなかった。


僕にも、それは分かった。


「すべてだ」


僕は答えた。


「ユリウス王子の横顔が残る銀貨は、一枚残らず消す」


老職人は、ひどく悲しそうな顔をした。


まるで貨幣ではなく、誰かの面影を炉へ送るような顔だった。


けれど、顔が残っている限り、名は死なない。


名が残っている限り、クロエはそこへ戻れる。


だから、銀貨は消さなければならなかった。


新しい銀貨には、クロード皇太子の横顔が刻まれた。


二つの横顔は似ている。


そうでなければならなかった。


人々はすぐに新しい銀貨に慣れた。


貨幣とはそういうものだ。


最初は珍しがる。


次に話題にする。


やがて忘れる。


誰も、ユリウスの横顔が世界から消えていくことを、深く悲しまなかった。


ただ一人、クロエだけが寂しそうにした。


市場でも、教会でも、父の財布の中でも、もうユリウス王子の銀貨を見つけられなくなって。


まるで、世界中からあの日の王子様が消えてしまったようだと、彼女は思った。


その報告を読んだ時、僕は安堵した。


ちゃんと、消えている。


彼女の世界から。


同時に、少しだけ腹が立った。


消えたことに気づくほど、彼女はユリウスを見ていた。


銀貨を探していた。


過去の王子様の横顔を、無意識に求めていた。


その事実が、僕を苛立たせた。


だから、ただ消すだけでは足りないと思った。


人は、何かを手放す前に、一度きちんと見なければならない。


ただし、一枚だけは溶かさなかった。


クロエの小箱にあった銀貨。


報告書には、短く記されている。


対象C所持、旧ユリウス王子銀貨。

回収済。

王宮宝物庫へ移送。


王国歴五一六年発行。


幼いユリウスの横顔が刻まれた銀貨。


彼女の手から奪い、時が来るまで王宮宝物庫に封じた。


それを彼女に返したのは、白百合庭園へ行く前夜だった。


「君が寂しそうにしていたから」


そう言うと、クロエは僕を信じた。


優しい理由だと思ってくれた。


間違ってはいない。


彼女が寂しそうだったのは本当だ。


僕は、その寂しさを正しい場所へ導いただけだ。


ユリウス王子の銀貨を見せる。


あの日の王子様へ、ありがとうと言わせる。


白百合庭園へ連れていく。


銀栞を置かせる。


過去を大切なものとして扱わせた上で、過去へ返させる。


それで初めて、別れは成立する。


奪われた別れでは駄目だった。


彼女自身に、手放させなければ意味がない。


自分で選んだ別れは、美しい。


美しいものほど、二度と戻らない。


今日、クロエは泣いた。


白百合庭園で。


ユリウス殿下、ありがとうございました、と言った。


そして、僕を見た。


クロード様、と呼んだ。


私は、あなたと生きたいです、と言った。


僕は、その声を聞くために十年を使った。


名前を変えた。


銀貨を溶かした。


記録を整理した。


彼女の世界から、ユリウスの痕跡を一つずつ遠ざけた。


そして今日、彼女は自分の意思で、ユリウスに別れを告げた。


完璧だった。


これ以上ないほど、美しい儀式だった。


けれど、完璧だったからこそ、僕はまだ少し怖かった。


クロエは、本当に僕を呼んだのだろうか。


クロード様、と。


あの声は、ユリウスの残響を含んでいなかっただろうか。


僕の名を呼ぶ時、彼女の喉の奥に、まだ別の名前が残っていなかっただろうか。


考えるだけで、嫌だった。


だから僕は、目を閉じて何度も思い出した。


クロード様。


彼女の声で。


クロード様。


もう一度。


クロード様。


僕はその音を、頭の中で何度も繰り返した。


少しでも長く、彼女の声の中にいたかった。


次に呼ばれた時、すぐに返事をするのはやめようと思った。


一拍、待つ。


聞こえなかったふりではない。


むしろ、聞こえすぎているから。


返事をすれば、名前は会話になってしまう。


一拍待てば、その名は僕だけのものになる。


クロエの声で形になった僕の名を、ほんの少しだけ長く閉じ込めておける。


僕は、そういう小さなことを考えている自分が好きではなかった。


けれど、やめるつもりもなかった。


クロエに関する欲だけは、切り捨てることができない。


執務机の上に、二枚の銀貨を並べた。


古いユリウス王子銀貨。


新しいクロード皇太子銀貨。


どちらにも、王家の横顔がある。


どちらにも、クロエへ伸びる邪魔な道があった。


だから片方を消し、片方を残した。


残すべきものは、いつも僕が決めた。


僕は紙に彼女の名を書いた。


クロエ。


その隣に、自分の名を書く。


クロード。


何度見ても、よく似ていた。


美しい。


僕はしばらく、その二つの名を見つめた。


やがて紙を折りたたみ、机の奥へしまう。


これは誰にも見せない。


見せれば、きっと誤解される。


王太子が、たった一人の令嬢に名前を似せたかっただけで改名したなどと、誰も正しく理解しない。


でも、僕にはそれで十分だった。


王は、民に名を覚えられる。


けれど僕は、クロエに呼ばれる名が欲しかった。


ただ、それだけだった。


そのために、ユリウスという名を殺した。


そしてクロエは今日、その死を悼んだ。


あの日の王子様に別れを告げた。


僕は机の上の報告書を開いた。


次の表紙には、こう記されている。


レナード男爵家再婚計画に関する進捗報告。


僕は表紙をなぞった。


ユリウスという名は死んだ。


銀貨も消えた。


白百合の庭から、栞も回収した。


だが、クロエが僕を選ぶためには、それだけでは足りなかった。


彼女には、まだ避難所があった。


母親。


エレナ・レナード。


温厚。


娘への愛着、極めて強い。


対象Cの精神的避難所として機能。


僕はその一文を、静かに見つめた。


避難所。


そう。


クロエには、避難所があった。


だから最初に、そこを整理しなければならなかった。

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やばすぎこの男www 計画通りじゃん全部
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