第11話 母という避難所を消す
クロエには、母親がいた。
エレナ・レナード。
下級貴族の妻としては、目立つ人ではなかった。
社交界で強い発言力を持つわけでもない。王宮に太い縁があるわけでもない。財産家の娘というわけでもない。
ただ、娘を愛していた。
それが問題だった。
報告書には、簡潔に記されている。
対象Cの母親、エレナ・レナード。
温厚。
身体虚弱。
娘への愛着、極めて強い。
対象Cの精神的避難所として機能。
排除または機能停止を要検討。
僕はその一文を、何度も読んだ。
精神的避難所。
その言い方は正しかった。
クロエは、母の腕の中に逃げられた。
白百合庭園で泣いた日も、最後には母が彼女を抱きしめた。
レナード家で父に叱られても、母の部屋へ行けた。
嫌なことがあれば、母の膝の上で眠れた。
白百合の髪飾りも、ハンカチの刺繍も、半匙の蜂蜜も、淡い水色のドレスも、すべて母から与えられた。
クロエの中には、母の手が残っていた。
それは、よくない。
とても、よくなかった。
彼女が苦しい時、最初に思い出す声が僕ではない。
彼女が泣きそうな時、顔を埋めたい場所が僕の胸ではない。
彼女が眠れない夜、思い出す温度が僕の手ではない。
母親。
その言葉は、僕の入れない部屋の名前だった。
人は、帰る場所があるうちは、差し出された手を運命だと思わない。
苦しくても、まだ戻れると思う。
泣いても、まだ抱きしめてくれる人がいると思う。
それでは駄目だった。
クロエが本当に救われるためには、救われるしかない場所まで来なければならない。
僕の手を、ただの親切ではなく、最後の手だと思わなければならない。
母親は、優しすぎた。
優しい人間は、娘を抱きしめる。
抱きしめられた娘は、その腕の中へ帰ろうとする。
僕のところへ来る道に、母親はいらなかった。
最初から、そう思っていたわけではない。
少なくとも、僕はそう信じている。
王国歴五一八年の春、白百合庭園でクロエに会った時、僕はただ彼女を覚えただけだった。
泣きそうな顔。
白いハンカチ。
僕の血を怖がる声。
それから数か月、僕は彼女のことを調べさせた。
下級貴族の娘。
母親は病弱。
父親は気弱で、家の傾きに気づいているが手を打てない。
娘は母に懐き、母も娘を深く愛している。
報告は、どれも小さなものだった。
朝、母娘で庭を歩いた。
母が娘に本を読んだ。
娘が母の膝掛けを選んだ。
母が娘のために白百合を刺繍した。
普通なら、読み流すような記録だ。
けれど、僕は読み流せなかった。
そこに、僕の入る余地がなかったからだ。
クロエは、母に愛されていた。
それは喜ばしいことのはずだった。
幸福な娘が、不幸になる必要などない。
本来なら、そう考えるべきだった。
でも、僕は別のことを考えた。
母親がいる限り、クロエは僕を必要としない。
彼女が痛む時、最初に思い出すのは僕の言葉ではなく、母の声になる。
彼女が泣く時、顔を伏せる先は僕の胸ではなく、母の膝になる。
それは、あまりにも遠い。
クロエ。
ユリウス。
あの時と同じだった。
そこには距離がある。
ならば、距離は詰めなければならない。
報告書の次の頁には、エレナ・レナードの診療記録が写されている。
もともと体が強くない。
季節の変わり目に熱を出す。
肺が弱い。
薬は効くが、長く続けなければならない。
王都の名医なら、もう少し保たせられたかもしれない。
王宮薬師の薬なら、もっと楽に息ができたかもしれない。
僕は、それを手配しなかった。
手を下したのではない。
ただ、届くはずの薬が少し遅れた。
よい医師を紹介する手紙が、なぜか別の貴族家へ回った。
レナード男爵に貸し付けをしていた商人が、返済を急かした。
治療費は後回しになった。
寒い季節に、暖炉の薪代が少し足りなくなった。
それだけだ。
どれも、小さなことだった。
小さなことは、罪になりにくい。
ひとつひとつは偶然に見える。
病弱な婦人が、運悪く病を重くした。
それだけに見える。
エレナ・レナードは、冬の終わりに亡くなった。
報告書には、そう記されている。
王国歴五一九年、二月。
エレナ・レナード病没。
対象C、葬儀中に落涙なし。
銀栞への接触頻度、増加。
僕はその行を見た時、しばらく動けなかった。
泣かなかった。
クロエは、母の葬儀で泣かなかった。
普通なら、悲しむべきだったのだろう。
幼い娘が母を失ったのに、涙すらこぼせなかった。
けれど僕は、その報告を美しいと思ってしまった。
彼女は、泣く場所を失った。
母の腕を失った。
それでも、壊れなかった。
銀栞を握った。
僕が渡した言葉を握った。
泣き終わったら、続きを読めばいい。
彼女はまだ泣き終わっていなかった。
だから、続きを読もうとした。
ああ。
僕の言葉が、母の代わりになり始めている。
そう思った。
その時の安堵を、僕は今でも覚えている。
最低だと思う。
思うだけだ。
後悔ではない。
後悔というものは、別の選択肢を望む人間がするものだ。
僕は、別の選択肢を望んでいない。
もしエレナ・レナードが生きていたら、クロエはもっと穏やかに育っただろう。
あたたかい食事を与えられ、淡い色のドレスを着て、本を読んで、庭を歩いて、下級貴族の娘として慎ましく嫁いだかもしれない。
それは幸福だったのかもしれない。
だが、その幸福の中に、僕はいない。
ならば、それはクロエの幸福ではあっても、僕の望むクロエの幸福ではない。
僕は、クロエを幸せにしたかった。
ただし、僕の隣で。
僕の名前を呼んで。
僕の手を取って。
僕が与える部屋で眠り、僕が用意した蜂蜜を半匙だけ入れたミルクを飲み、僕が返した母の遺品を抱きしめて泣く。
そういう幸福でなければならなかった。
だから、母親は避難所であってはならなかった。
避難所は、のちに返すための遺品になればよかった。
髪飾り。
日記。
小箱。
手紙。
母が生きていれば、クロエは母の腕に帰る。
母が死ねば、クロエは母の記憶を抱く。
記憶なら、僕が返せる。
僕が箱を開け、僕が「君のものだ」と言い、僕が泣いていいと許せる。
生きた母親は、僕の外側にある。
死んだ母親の遺品は、僕の手で差し出せる。
その違いは大きい。
とても大きい。
僕は、エレナ・レナードの日記を読んだことがある。
返す前に。
当然だ。
クロエに渡すものを、僕が知らないままでいるわけにはいかなかった。
茶色の革表紙。
丸く、やわらかい字。
クロエへ。
その文字を見た瞬間、僕は日記を閉じそうになった。
嫌な字だった。
娘を抱きしめるような字だった。
一文字ごとに、母親の体温が残っているような字だった。
クロエがこの字を見たら、きっと僕の前から少し遠くへ行く。
王宮の客室にいても、僕の用意した椅子に座っていても、彼女は母親の腕の中へ帰ってしまう。
死んだ人間が、まだクロエを抱きしめている。
それが許せなかった。
けれど、その日記を捨てることはできなかった。
捨てれば、クロエは母を探す。
奪われたものは、人の中で大きくなる。
返されたものは、やがて棚に置かれる。
だから返した。
僕の手で。
僕の部屋の近くで。
僕の選んだ朝に。
クロエが泣くのを、僕が見られる場所で。
僕は報告書の頁をめくる。
エレナ・レナード死亡後、レナード男爵家の家政は混乱。
男爵、対外債務増加。
対象C、家事補助頻度増加。
精神的支柱喪失により、外部からの環境調整が容易となる。
環境調整。
美しい言葉だ。
誰も傷つけるようには聞こえない。
けれど、必要な意味をすべて含んでいる。
クロエの周りから、彼女を守るものを少しずつ減らす。
残ったものを、僕があとで返せる形に変える。
そうすれば、彼女は失ったものを、僕の手から受け取ることになる。
実際、そうなった。
王宮の客室で、母の髪飾りを抱いたクロエは泣いた。
僕の前で。
僕が、泣いていいと言ったから。
あの瞬間、十年分の手順は正しかったのだと思った。
彼女は母のために泣いた。
けれど、泣くことを許したのは僕だった。
彼女は母の遺品を抱いた。
けれど、それを取り戻したのは僕だった。
彼女は母の記憶に触れた。
けれど、その箱を開けたのは僕だった。
母親は、ようやく僕の手の中に収まった。
それでいい。
それがよかった。
クロエは、もう母の腕には帰れない。
けれど母の遺品なら、僕の王宮の部屋に置ける。
僕の用意した棚に。
僕の選んだ光の当たる場所に。
僕の許した時間に。
彼女はそこで母を思い出せばいい。
泣けばいい。
僕が隣にいる。
それが、救いというものだ。
僕は、次の書類束を引き寄せた。
表紙には、こうある。
レナード男爵後妻候補選定報告。
母という避難所は消えた。
けれど、ただ空白を作るだけでは足りない。
空白には、役割を入れなければならない。
クロエが本当に僕の手を取るためには、彼女の家が、彼女を少しずつ追い出す場所にならなければならなかった。
父は弱い。
弱い人間は、強い声に従う。
ならば、強い声を家に入れればいい。
義母。
義妹。
クロエが耐えるための痛み。
クロエが逃げたいと思うための家。
クロエが、それでも逃げられないと知るための鎖。
僕は、後妻候補の一覧を開いた。
その中に、リリアの母となる女の名前があった。
借金。
野心。
社交界への執着。
娘への偏愛。
条件は、揃っていた。
僕はその名に、静かに印をつけた。




