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虐げられ令嬢は皇太子の愛に救われ、あの日の王子様に別れを告げた  作者: 堀吉 蔵人


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第12話 悪意が自分で育つように

悪人を作る必要はない。


人は、少しだけ欲しいものを見せれば、自分の足でそこへ向かう。


金が欲しい者には、金を。


地位が欲しい者には、地位を。


称賛が欲しい者には、称賛を。


誰かを見下したい者には、見下せる相手を。


あとは、道を整えればいい。


レナード男爵後妻候補選定報告。


僕は、その表紙を開いた。


候補は七名。


未亡人が三名。


遠縁の貴族令嬢が二名。


商家出身の寡婦が一名。


そして、落ちぶれかけた準男爵家の娘が一名。


セリーヌ・マイヤー。


のちに、クロエの義母となる女。


報告書には、整った字で彼女の性質が記されている。


社交界への執着、強。

浪費傾向あり。

現状への不満、強。

実娘リリアへの偏愛、顕著。

他者の所有物への嫉妬傾向あり。

対象Cへの優越感形成、容易と推測。


僕は、その最後の一文に印をつけた。


容易。


よい言葉だった。


セリーヌは、もともとクロエを傷つける素質を持っていた。


僕が与えたのではない。


彼女の中にあった。


僕はただ、その素質がもっともよく働く場所へ置いただけだ。


花が日向へ伸びるように。


黴が湿った壁へ広がるように。


悪意もまた、よく育つ場所へ置けば勝手に伸びる。


レナード男爵は弱かった。


妻を失い、家政は乱れ、借金は増え、娘を守る気力も財力もなかった。


弱い人間は、自分より強い声を求める。


自分の代わりに決めてくれる者を求める。


自分の罪悪感を、家のためという言葉で包んでくれる者を求める。


セリーヌは、ちょうどよかった。


彼女はレナード男爵に微笑んだ。


「私がお支えいたしますわ」


そう言った。


男爵は救われた顔をした。


愚かだと思う。


けれど、責める気にはならない。


彼もまた、動きやすい場所へ動いただけだ。


再婚は、滞りなく成立した。


クロエはまだ幼かった。


母を失ったばかりで、泣き方も忘れた子供だった。


そこへ、セリーヌとリリアが入った。


リリアは、最初からクロエを嫌ったわけではない。


少なくとも、報告書にはそうある。


リリア・マイヤー。

年齢、対象Cより一歳下。

自己愛傾向、強。

母への依存、強。

美貌への自負あり。

対象Cの静謐さに対し、劣等感を抱く可能性。


クロエは、騒がない。


奪われても、黙る。


泣きたくても、我慢する。


その静けさは、時に周囲の人間を苛立たせる。


自分が醜く見えるからだ。


リリアは、すぐにそれを嫌った。


母に甘え、父に媚び、使用人に命じ、クロエのものを欲しがった。


部屋。


髪飾り。


ドレス。


本。


庭のベンチ。


母の小箱。


それらが本当に欲しかったのかは、分からない。


たぶん、違う。


リリアが欲しかったのは、クロエがそれを手放す顔だった。


だが、彼女はまだ子供だった。


奪い方を知らない。


だから、母が教えた。


「姉なのだから、譲ってあげなさい」


よい言葉だ。


刃物のような言葉より、ずっと長く刺さる。


その言葉は、クロエの抵抗を奪った。


怒ってはいけない。


欲しがってはいけない。


姉なのだから。


我慢しなければならない。


クロエは、そう覚えた。


報告書は、淡々としている。


対象C、私室変更を受諾。

対象C、母親遺品の一部移動に抗議せず。

対象C、食事量減少。

銀栞への接触頻度、増加。

対象C、夜間覚醒あり。

対象C、泣かず。


泣かず。


僕は、その二文字を見るたびに、しばらく頁をめくれなくなる。


彼女は泣かなかった。


母を失っても。


部屋を奪われても。


髪飾りを取られても。


食事を減らされても。


泣かなかった。


泣く場所がなかったからだ。


そのかわり、銀栞を握った。


僕の言葉を握った。


泣き終わったら、続きを読めばいい。


彼女は、まだ泣いていなかった。


だから、続きを待っていた。


その我慢は、美しかった。


美しくて、腹立たしかった。


なぜ泣かない。


なぜ僕のいない場所で、そんな顔をする。


なぜその涙の手前を、義母や義妹に見せる。


クロエが泣きそうになる顔は、僕が見たかった。


あの日、白百合庭園で見た顔。


自分が傷ついているのに、僕の左手の血を見て泣きそうになった顔。


あの顔を、もう一度見たいと思った。


それは救いたいという気持ちだった。


少なくとも、僕はそう呼んでいる。


けれど、報告書の中でクロエが泣かずにいるたび、僕は頁の向こう側へ手を伸ばしたくなった。


今すぐ行って、泣いていいと言いたかった。


僕の前で泣かせたかった。


それがまだできないことに、何度も苛立った。


早すぎる。


まだ彼女は、僕の手を取らない。


ここで救えば、ただの親切になる。


王子の気まぐれになる。


それでは足りない。


彼女には、僕を最後の手だと思ってもらわなければならない。


痛みはあった。


だが、出口がなかった。


出口のない痛みは、人を壊すだけだ。


必要なのは、痛みと出口だ。


出口の先に、僕がいなければならない。


そのために、婚約者が必要だった。


エドガー・バルクス。


子爵家の令息。


容姿は整っている。


家格はレナード家より上。


財政は安定。


自尊心が高く、判断力は低い。


女性に好かれる自分を好む傾向あり。


父親の命令には従うが、責任は取りたがらない。


報告書の評価は、簡潔だった。


対象Cの脱出希望先として適性あり。

最終段階における破棄実行者として利用可能。


僕は、その一文を読んだ時、少しだけ笑った。


実に適任だった。


クロエにとって、エドガーは愛する相手ではない。


それでよかった。


愛していれば、あとが面倒になる。


未練が残る。


裏切られた時、絶望ではなく執着が生まれる。


だが、愛していない相手ならいい。


エドガーは、家を出るための扉になればよかった。


クロエが、あの家から離れる唯一の道だと思えばよかった。


希望は、強すぎてはいけない。


淡く、現実的で、情けなく、けれど手放せない程度がいい。


クロエはエドガーを愛していなかった。


でも、婚約を希望にした。


嫁げば家を出られる。


義母と義妹から離れられる。


傾きかけたレナード家を救える。


父に、少しは認めてもらえるかもしれない。


そう思った。


思わせた。


その報告を読んだ時、僕は机の上に手を置いて、しばらく目を閉じた。


クロエが、エドガーとの婚約書を見つめている。


その男の妻になる未来を、希望と呼ぼうとしている。


愛ではない。


それは分かっている。


分かっていても、嫌だった。


クロエの未来の欄に、僕以外の男の名前が書かれている。


たとえそれが罠であっても。


たとえ出口の形をした行き止まりであっても。


その紙を燃やしたくなった。


エドガーという名前を、彼女の周囲から削り取りたくなった。


けれど、まだ早かった。


彼には役目がある。


僕は自分にそう言い聞かせた。


何度も。


何度も。


エドガーは、役目を終えれば消せる。


その日まで、残しておけばいい。


僕はエドガーに、クロエの価値を教えなかった。


クロエの母の遺産のことも。


彼女の忍耐も。


彼女の優しさも。


彼女が蜂蜜を半匙だけ好むことも。


何も教えなかった。


教えれば、彼はクロエを大切にするかもしれない。


それは困る。


エドガーには、クロエを見誤ってもらわなければならなかった。


彼がクロエの手を見て、洗濯で荒れた指先に気づいたら困る。


彼がクロエの声の細さに気づいて、何を我慢しているのか尋ねたら困る。


彼がクロエに本を贈ったり、温かい食事を出したり、眠れる部屋を用意したら困る。


そんなことは、絶対にあってはならなかった。


クロエの痛みに気づくのは、僕でなければならない。


彼女の好きなものを覚えるのも、僕でなければならない。


彼女の泣き方を許すのも、僕でなければならない。


だから、エドガーには何も知らせなかった。


代わりに、リリアを見せた。


泣きやすく、笑いやすく、分かりやすく、守ってほしそうにする娘。


エドガーには十分だった。


彼は、簡単にそちらへ傾いた。


誰かを愛したわけではない。


ただ、自分を男らしく見せてくれる相手へ動いただけだ。


人は、自分が一番美しく見える場所を好む。


エドガーにとって、クロエの隣は居心地が悪かった。


クロエは静かすぎる。


要求しない。


媚びない。


泣きつかない。


だから彼は、自分が必要とされている気になれなかった。


リリアは違う。


「エドガー様だけが頼りです」と言えば、彼は喜ぶ。


それだけのことだった。


婚約破棄の種は、自然に育った。


少し水をやればよかった。


リリアの侍女に、クロエの筆跡を真似させる練習をさせた。


仕立屋に、裂け目を目立たせる縫い方を教えた。


エドガーの友人に、白百合夜会での公開断罪が流行のようだと吹き込ませた。


義母には、今のうちにクロエを追い出せば財産処理が楽になると囁かせた。


父には、沈黙が最善だと思わせた。


誰も、命令されたとは思っていない。


それがよかった。


リリアは泣く準備を覚えた。


エドガーは守る男の顔を覚えた。


義母は悲しむ母の顔を覚えた。


父は黙ることを覚えた。


人は、自分で選んだ悪意ほど熱心に実行する。


僕は舞台を作っただけだ。


役者は、自分で台詞を言った。


僕は報告書を閉じた。


次の表紙には、こうある。


白百合夜会実施記録。


婚約破棄の夜。


彼女にとっては、すべてが終わった夜。


僕にとっては、ようやく始められた夜だった。

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仕組まれてることにも誰も気づかない*\(^o^)/* まぁだからこそこうなってるのか。
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