5. 手順の三
四人目は、馬車から降りてきた。
薬院の門前である。朝の光がまだ低く、石畳の目地に一昨日の雨が残っている。
黒い外套の裾が、その水を踏んだ。
アルテンブルク家の馬車である。扉に楓の紋がある。子供の頃、この紋の葉が七つに分かれていることを、わたくしは指で数えて覚えた。
なぜ薬院に、と思って、すぐに分かる。
母の薬である。眠りの浅い人で、月に一度、煎じ薬をここへ取りに来させていた。父が自分で来るのは、たぶん、はじめてのことである。
「――」
父が、わたくしを見る。
見て、立ちすくむ。手にしていた手袋が、片方だけ落ちた。
落ちた音は、しなかったと思う。あの薄い革は、石畳の上でもほとんど音を立てない。それなのに、わたくしの耳には、はっきりと聞こえている。
「お父様」
わたくしは呼んだ。三日ぶりに、その言葉を口にする。
父は答えない。
答えないまま、拾わずに、落ちた手袋を見ている。
「お父様。わたくしでございます」
「……昨日」
声が、ずいぶん低い。
「昨日、弔いの席で、お前の母が」
「はい」
「一言も、口をきかなかった」
父は、それだけを言われた。
弔いの席、というのはわたくしの弔いのことである。伯爵家の娘が王族殺しで首を落とされて、それでも弔いの席は形として立つ。形だけは立つ。
母は、そこで一言も口をきかなかった。
それが、この人の中の何かを起こしたのだ。
「お父様」
父は答えない。
答えないまま馬車へ戻り、扉が閉まる。車輪が回る。
わたくしは追わない。
追えるのに、追わなかった。歩けるのだから、馬車の横を、屋敷まででも歩いてゆける。それをしない理由が、自分でもよく分からない。
――たぶん、まだ、聞きたくないのだと思う。
あの人が家名のために何を言ったか、わたくしはもう知っている。知っているのに、本人の口から聞いてしまえば、それが本当のことになってしまう。
「ルイーゼ様」
「……参りません。まだ、参れませんの」
あの方は、それ以上おっしゃらない。
落ちた手袋だけが、石畳の上に残っている。
拾ってさしあげたい、と思った。
思っただけである。
◇
裁定所の、ケストナー様の部屋。
窓が北向きで、部屋の光が一日じゅう変わらない。裁定というものは、たぶん、光の変わらないところでするものなのだろう。
合議録の写しが卓に広げられ、あの方が指で追ってゆく。
わたくしは肩ごしに覗き込む。読めはするのだ。字も、罫も、判の朱も、はっきり見える。ただ、頁をめくることができない。
自分の裁きの記録を、他人にめくってもらいながら読む。
二十一年、こんな読み方をしたことはない。
「一の要件。王族に対する加害であること」
「……成り立ちます」
「二の要件。その者が、その場に居合わせたこと」
「わたくしはあの晩、あの部屋におりました。成り立ちます」
あの方の指が、三行目で止まる。
「三の要件。毒または凶器が、その者の手によって加えられたと、験しによって示されること」
――加えられた。
わたくしは、その四文字を三度読み返す。
〈手を経た〉ではない。〈加えられた〉。
運んだ手と、入れた手は、この条文の上では別のものとして書き分けられている。二百年だか三百年だか前に、この文言を選んだ誰かがいたのだ。運ぶ者を下手人にしてはならないと、その人は考えたのだと思う。
「ズィーバー様。ここは、〈手を経た〉ではございませんのね?」
「違います。〈加えられた〉です。運んだ者と、入れた者を分けるための文言です」
「分けるためには」
「――瓶を験さねばなりません」
あの方が、机の縁に手を置かれる。
「手順の三で分かるのは、毒が瓶にあったか、無かったか。それだけです。瓶にもあるなら、注いだ者は運んだだけかもしれません。杯にだけあるなら――」
「注いだ者が入れた、ということになりますの?」
「いいえ。そこまでは言えません。注ぐ前に杯へ入れた者がいる余地は、残ります」
あの方は首を横に振られた。
「ただ、どちらにしても、瓶を験さぬかぎり〈加えられた〉ことは示せません。わたしは、その手順を踏んでおりません」
部屋が、しんとする。
「東翼では、杯は伏せて重ねてございます」
ケストナー様が、椅子の背に体を預けられた。
「酒番が一つ取り、卓の上で拭いて、そこへ注ぐ。注いでから殿下のお手に渡るまで、運ぶ者はただひとりだ」
「……わたくしでございます」
「そうだ。〈杯へ加えられた〉と置けば、疑いは、お前ひとりに集まる。だから瓶を験さねばならなかった。わしが保留と述べたのは、まさにそこだ。……押し切られたがな」
老人は、写しの下の頁をめくる。
「ついでだ。この条には続きがある。刑が定まったあと、執行を止める道が二つ書いてある」
「二つ?」
「一つ。裁定官三名の連署による停止。二つ。験しを行った院の長の副署を備えた、不備の申立て。……これ以外の申し出は、執行を止めん」
「広場で叫んでも」
「止まらん。門で止められて、終いだ」
老人は、写しを閉じて、両手をその上に置かれる。
「では、道は二つだけ」
「二つだけだ。……道が二つあったということは、二つとも塞がっていたわけではない、ということでもあるがな」
そのときは、意味が分からない。
薬院への帰り道で、分かることになる。
◇
薬院へ戻る道すがら、あの方が話しはじめられた。
合議録を見てから、と昨日おっしゃった、その順番である。
「十六日の夜、記録を照らしておりました。験しの控えに、瓶の欄がない。空欄ではなく、欄そのものが引かれていない」
「気づかれたのですね」
「はい。その足で薬院長のところへ参りました」
「なんと」
「〈合議は済んだ。験しの不備は薬院の落度になる。明朝、正式な書面で出せ〉」
あの方の歩幅が、少しだけ乱れる。
その言葉を、この方は一言一句そのまま覚えておられる。覚えていたくない言葉ほど、人は正確に覚えているものらしい。
「書面には薬院長の副署が要ります。わたしは夜通し書きました。十六日付です。夜が明けて、副署をいただきに参りましたら――」
「おられなかった」
「登院前でした。待つか、走るか。それだけでした」
走られたのだ、と思う。
「副署のない書面を持って、広場へ参りました。門で止められて、説明をして、通されて――着いたときには、終わっておりました」
石畳を、わたくしたちは並んで歩いている。
言い訳が、ひとつも足されていない。待てばよかった、とも、上役が悪い、とも、おっしゃらない。事実だけが、順番どおりに置かれている。
置かれれば置かれるほど、聞いているほうは逃げ場がなくなる。
この方は、たぶん、それを承知でこう話しておられる。
わたくしの敬語が、自分でも分かるほど硬くなってゆく。
「〈明朝、正式な書面で出せ〉。一夜、待てと。人ひとりの首が、明くる朝に落ちると分かっていて」
声は荒げていない。荒げ方を、わたくしは習っていない。
その代わり、言葉が石のようになる。
「〈験しの不備は薬院の落度になる〉。落度になる、と。落ちるのは、わたくしの首でございましたのに」
言いながら、自分の声の温度が下がってゆくのが分かる。
生きていたころ、腹を立てると顔が熱くなった。今は、熱くならない。熱くならない代わりに、言葉の一つ一つが、置いた場所からもう動かなくなる。
そこまで言って、わたくしは足を止める。
条には、道が二つ書いてあった。
「ジーモン様」
はじめて、その名を呼ぶ。
「……はい」
「なぜ、ケストナー様のところへいらっしゃらなかったのですか?」
あの方の足が、止まる。
「三名の連署があれば、止まるのでございますね。お一人はもう、証しが足りないと述べておいででした。夜中でも、あの方はお会いになったはずです」
薬院の壁が、夕日で赤い。
あの方は、しばらく黙っておられた。
「……行けばよかったのです」
「なぜ、行かれなかったのですか?」
あの方は、答えられない。
答えられないまま、しばらく立っておられた。夕日が、その方の半分だけを赤くしている。
「……断れませんでした」
それだけである。
言い訳が来ると身構えていた。来ない。来ないぶん、わたくしの中の熱がどこへも逃げてゆかない。
この方は、上役に「明朝」と言われて、その言葉のほうを選ばれた。
選んだ、というより、選べなかったのだと思う。平民から薬院へ上がって、上の人の言葉に逆らわないことで、ここまで来た人なのだ。
――分かる。
分かるのに、わたくしの首は、あの朝、落ちた。
「ジーモン様」
「はい」
「わたくしは、まだあなたを赦しません」
言ってしまってから、少しだけ怖くなる。
この方に去られたら、わたくしを見る人は、あと二人しかいない。
それでも、取り消さない。取り消してしまえば、わたくしの首が落ちた朝に、意味がなくなる気がした。
あの方は、うなずかれる。
「はい」
「お怒りにならないのですか?」
「怒られる筋の話ではありませんので」
「けれど、証しは要ります。十六日付の、その一枚を」
「持っております」
あの方が、上着の内側を叩かれる。ずっと持ち歩いておられるのだ。
「決してお離しになりませんよう。……四日前まで、わたくしはあなたの名を存じませんでした」
「はい」
「いまは存じております」
夕日が、薬院の壁を端から赤く塗ってゆく。
「赦しませんけれど、存じております。ジーモン様」
二度目に呼んだその名は、一度目より、ずっと言いやすかった。
◇
夜、東翼の裏手を通ったとき、下男のヴェンツェルが薪を積みながらひとりごとを言うのを聞く。
「瓶なら、あの晩のうちに下げたよ。言われたとおりに。……なんべん聞かれてもね、下げろと言われたから下げたんだ」
この方には、わたくしが見えない。
これで、お声だけを聞いた見えない方が五人目になる。言われたとおりに、と、この方は二度おっしゃった。




