6. 母には見えない
アルテンブルク伯爵邸の門は、開いている。
開いていたから、入れた。
二十日あまり前まで、この門はわたくしの家の門である。
玄関までの砂利道の、右から四本目の楓がいちばん早く色づくこと。厩の裏の井戸だけが夏でも冷たいこと。二階の東の窓が、雨の日に少しだけ開きにくくなること。
全部、知っている。
知っているのに、砂利が鳴らない。
この道は、走ると音が立つ道だった。十二の年、門限に遅れて、音を立てないように爪先で歩いたことがある。あれだけ苦労した音が、いまは一つも出ない。
「――ルイーゼ」
玄関の石段の上で、父が立ちすくむ。
昨日、薬院の門前で見たのと同じ顔である。
この人は、驚いたときに眉を動かさない。動かないぶん、口のまわりだけが、少し崩れる。
「お父様」
「入るな。……いや」
父は口を押さえて、それから、手を下ろした。
「入れ」
わたくしは、開いた扉をくぐる。
ジーモン様が、そのうしろからついてこられる。
◇
母は、居間の窓辺にいた。
膝の上に、繕いかけの布がある。針は動いていない。
部屋の様子は、何ひとつ変わっていなかった。長椅子の位置も、暖炉の脇の燭台も、窓辺の椅子の傾きも。
変わったのは、母の背中だけである。
五日で、こんなに丸くなるものらしい。
「お母様」
わたくしは、二歩の距離まで近づく。
「お母様。ルイーゼでございます」
母は顔を上げない。
窓の外を見て、それから膝の布を見て、また窓の外を見る。
「お母様」
三度呼んだ。
二歩の距離である。声を張る必要のない距離で、三度。
母の目が、わたくしの立っているところを、通り過ぎてゆく。
わたくしは、母の視線の先へ回り込んだ。回り込んでも、その目はわたくしを通り抜けて、窓の桟のあたりで止まる。
「見えて、おられませんの」
「……お母様は、いつからこちらに?」
「朝からだ。動かん」
「お声は」
「かける。返ってこん」
父が、部屋の入口で目を伏せる。
「妻には、見えぬ」
「……なぜでございますの?」
「わしにも分からん」
「お母様には、わたくしの声も届きませんの?」
「呼んでみればよい」
そのとき、母が口を開いた。
「ルイーゼ」
わたくしは、はねるように振り向く。
「はい」
「ルイーゼ」
「はい。ここにおります。お母様」
「……ルイーゼ」
母は、誰もいない窓のほうを見て、その名を呼んでいる。
返事は、届かない。
わたくしは、もう一度返事をする。
届かないと知っていて、もう一度する。
それから、もう一度した。
「はい。お母様。はい。ここに」
声が、部屋の中を素通りしてゆく。壁にも、窓にも、母の耳にも当たらずに。
――こういうものを、無駄な声と言うのだろうか。
わたくしは、そのとき初めて、自分が死んだのだということを、腹の底で分かった気がした。
処刑台の上でも、骸を見たときでもない。
母に返事が届かなかった、この二歩の距離である。
「ルイーゼ様」
ジーモン様の声が、うしろから低く落ちてくる。
「一の則を、もう一度」
――おのれの行い、または行わざりしことが、その死に関われること。
「お母様は、わたくしがやっていないと信じておいでです。……それで、一つ目が欠けますの?」
「いいえ」
あの方は、はっきり首を横に振られた。
「娘御を信じておられるだけでは、一つ目の欠落は分かりません。一つ目は、あなたの罪ではなく、奥様ご自身のことでございます。〈自分のしたこと、しなかったことが、この死に関わった〉と、奥様がお思いかどうか。……そこだけが、一つ目です」
「では、お母様ご自身が、ご自分について何とお思いか、でございますね」
「それが分からぬかぎり、なぜ見えないのかは決まりません」
「けれど、それはご本人でなければ」
わたくしが言いかけると、父が壁のほうを向いたまま口を開く。
「本人が、言うておる」
「……なんと、でございますか?」
父は、しばらく祖父の肖像を見ている。
「〈あの子は何もしておりません。わたくしも、何ひとつしておりません。したのは、あちらの方々です〉」
部屋の空気が、そこで一度止まる。
「拘束の報せが来た晩も、そう言うておる。わしが縁を切ると申したときも、同じことを繰り返した。……ひと言も変えずにな」
――わたくしも、何ひとつしておりません。
その一句が、わたくしの中でゆっくり形になってゆく。
「ジーモン様」
「はい」
「では、お母様は」
「〈自分のしたこと、しなかったことが、この死に関わった〉とは、お考えになっていないということです。……ご本人がそう言葉にしておられる以上、一つ目は立ちません」
「そう思っておられる方が、いちばん、わたくしを」
言葉が続かない。
いちばん深く思ってくださっている方にだけ、わたくしは届かない。
負い目が要るのだ。
愛では足りない。この理は、そういうふうにできている。
やさしくしてくださる方には見えて、ただ胸を張って信じてくださる方には見えない。
――こんなに意地の悪い決まりを、二百年前の医官は、よく平気な顔で書き残したものである。
◇
「お前は」
父の声が、うしろでした。
「お前は、わしが十年この家を保つためにしてきたことを、一度も見なかったな」
わたくしは振り向く。
父は壁の絵を見ている。祖父の肖像である。
「拘束の翌日だ。縁を切る、と申し上げておる。あれを言わねば、この家は取り潰しになっていた。使用人が十九人おる。厨のマリカは、足の悪い母親を養っておる。庭師のところは子が四人だ。……言い訳だな」
「お父様」
「言い訳だ。わしは、娘を捨てる側に立った。立つと決めて、立った」
父の語尾が、そこで濁る。
いつもそうだった。命令はまっすぐなのに、わたくしに向けるときだけ、最後の音が落ちる。
わたくしは、返す言葉を探す。
探して、見つけたものが、自分の喉に刺さった。
「……お父様。わたくしも、同じでございます」
「なに?」
「殿下は、八の月のはじめから、様子がおかしくていらっしゃいました。よくお眠りになる。手が震えていらっしゃる。わたくしは、気づいておりました」
父が、こちらを向く。
「申し上げませんでした。女官見習いの分際で、殿下のお体のことを申し上げるなど、と」
言いながら、あの夏の廊下を思い出している。
殿下が、昼のうちから長椅子で眠っておられる。手が震えて、書き物の字が崩れておられる。おかしい、と思った。思って、そのまま口を閉じたのである。
「……立場では申し上げられない、と、そう思って、黙っておりましたの」
母がまた、窓のほうへ顔を向けた。
「わたくしも、黙っておりました」
自分の声が、思ったより静かに出る。
「あの方々と、同じでございます。ケストナー様も、フリーダも、ジーモン様も」
「ルイーゼ」
「わたくしには、どなたも責める資格がございません。お父様のことも」
「……そうか」
「はい」
部屋が静かになる。
母の針が、ひと針だけ進んだ。
◇
帰り際、ジーモン様が母の前へ進み出られた。
「奥様。はじめてお目にかかります。薬院のズィーバーと申します」
母が顔を上げる。
この方は見えるのだ。生きているから。
「お嬢様から、お預かりした言葉がございます」
わたくしは、息をのんだ。――のむ息が、もう無いのだけれど。
「〈お母様。あの日、髪を切られる前に、櫛を通してくださって、ありがとうございました〉」
母の手から、布が落ちた。
顔が、ゆっくりと上がってくる。
「〈わたくしは、やっておりません〉」
ジーモン様は、そこで一度、言葉を置く。
「〈それから、お母様。わたくしは、まだここにおります〉」
母が、両手で顔を覆った。
その手のひらが、濡れてゆくのが見える。
肩が震えて、指のあいだから息が漏れて、繕いかけの布が足元で皺になって。
二十一年、わたくしはこの人の泣くところを二度しか見ていない。
わたくしのほうは、いくら待っても、乾いたままである。
「ジーモン様」
「はい」
「もうひとつ、お伝えいただけますか?」
「どうぞ」
「〈お母様。泣かないでくださいませ〉……いえ」
わたくしは、言い直した。
「〈お泣きになって、よろしゅうございます〉と」
◇
その夜、庭に立って、母の寝室の窓を見上げる。
灯が消えた。それからしばらくして、中から声が漏れてくる。
「ルイーゼ。ルイーゼ。……お前の枕は、そのままにしてありますからね。お前は何もしておりません。母も、何ひとつしておりません。したのは、あちらの方々です」
この方には、わたくしが見えない。
ご自分のなさったことも、なさらなかったことも、この件には関わっていない。母はそう思っておられる。
そして、それは正しい。
正しいから、届かない。
これまでに見えた方は四人。いまは三人。
――そして、お声だけを聞いた見えない方が、これで六人目になる。




