4. 消える
夜明けの東翼は、水の匂いがする。――いえ。しない。
三年ぶん、この時刻の廊下を歩いた。だから匂いのほうが、記憶から勝手に立ち上がってくるだけである。
空はまだ半分が藍で、井戸のあたりだけが白みはじめている。石畳の低いところに、昨日の水がたまって空を映していた。
いい朝である。
わたくしは、そう思ってしまった。あとから考えると、そう思ったことが、いちばん間の抜けた話である。
洗い場の戸が開く。
フリーダが桶を提げて出てきた。
「フリーダ。おはよう」
その娘は、こちらへまっすぐ歩いてくる。
「フリーダ」
まっすぐ歩いてきて、わたくしを通り抜けていった。
通り抜けられる、というのは、こういうことなのだと知る。
押されもしない。ぶつかりもしない。ただ、目の前に人の顔が来て、大きくなって、次の瞬間には背中になっている。娘の髪の一本一本が、わたくしの目の中を過ぎていった。
振り向く。
娘の背中が、井戸のほうへ遠ざかってゆく。桶の持ち手が、歩くたびに小さく鳴る。それに合わせて、鼻歌のようなものが、かすかに聞こえてきた。
国のはずれの、収穫の唄である。去年の秋、この娘が厨で歌っているのを聞いたことがある。
昨日まで泣いていた娘の、鼻歌だった。
「……フリーダ?」
もう一度呼ぶ。届かない。
もっと近くへ行って、耳のすぐ横で呼ぶ。まばたきひとつ、しない。
それでもう、分かってしまった。
四の則。三つのいずれかを欠きたる者には、翌朝より見えず、声も届かず。
昨日、この娘の中から〈まだ償っていない〉が消えた。消したのは、わたくしである。
わたくしは、井戸端に立つ娘をしばらく見ている。
ベルヒタに何か言われて、首をすくめて、笑っている。釣瓶を落として、綱を引いて、こぼした水に「あ」と声を上げて。ごく普通の、十九の娘の朝である。
よかった、と思う。
本当にそう思う。この三日、この娘はろくに眠っていなかったはずである。今朝は眠れた顔をしている。
――よかったのだ。
思ったのに、膝から力が抜けた。
「――ルイーゼ様」
あの方が、門のほうから走ってこられる。
息が上がっている。前髪が額に貼りついて、上着の前が留めきれていない。
医官が朝から走るものではございません。
そう申し上げようとして、声が出なかった。
「フリーダが」
「はい」
「わたくしを、見ませんでした」
「――今朝からですか?」
「今朝からでございます。夜明けに、改まったのだと思います」
あの方の肩が、そこで一度、落ちる。
「呼ばれましたか?」
「三度。耳のすぐ横でも、呼びました」
あの方は井戸端のほうを一度見て、それから、わたくしのほうへ顔を戻される。
「昨日、あの娘に何かおっしゃいましたか?」
「……順を決めたのは侍女頭だと、伝えました」
「ご本人から、直に」
「洗い場で。あの娘が、膝を抱えておりましたので」
「……なるほど」
その声は、責めても慰めてもいない。ただ、確かめておられるだけである。
「あの娘が、あまりに泣いておりましたから」
「はい」
「楽になってほしいと思いましたの。それだけでございます。それだけ、でしたのに」
言葉が、途中で止まる。
止まって、それから、おかしなことが起きる。
わたくしは、目を覆ったのである。
泣くときの形である。二十一年、そうしてきた。悲しければ目を覆う。覆って、しばらくすれば手のひらが濡れる。それだけのことを、体が勝手にやってくれる。
濡れない。
いつまで待っても、手のひらは乾いたままだった。
喉の奥が締まる感じもない。鼻の奥が痛くなる、あの前触れもない。まぶたの裏に熱がたまってこない。
泣くというのは、こんなに手数の多い仕組みだったのかと思う。
その手数のどれ一つも、もうわたくしのところには残っていない。
「……出ませんの」
自分の声が、ずいぶん遠くから聞こえる。
「涙が、出ませんの。ここまで来ているのに、出るところが、もう、ないみたいで」
「ルイーゼ様」
「よろしいのです。もともと、泣いていい立場ではございませんもの」
「そんな立場は、ございません」
あの方は何もおっしゃらない。
代わりに、石畳の上に座られた。
膝を折って、袖を払いもせず、そのまま。朝の、濡れた石の上である。上等ではないにしても、医官の装いを、そのまま濡らして。
灰色の布の裾が、みるみる色を変えてゆく。
「何を、なさいますの?」
「わたしのほうが高いと、見下ろすことになりますので」
「……お召し物が」
「乾きます」
その言い方が、あまりに事実だけでできている。
「風邪をお召しになります」
「薬院の者です。薬はございます」
「そういうことを申しているのではございません」
「存じております」
その方は、濡れた石の上で座り直される。
「……ずるうございますわ、その言い方」
「よく言われます」
わたくしも、隣に膝をついた。
膝は石に触れない。石の冷たさも、朝の湿りも、届かない。
触れないけれど、同じ高さにはなる。
この方は、こうすることしかできないのだと思う。手を伸ばして通り抜けるところを見せるより、黙って同じ高さまで下りてくるほうを選ばれたのだ。
二人で、井戸のほうを見ていた。フリーダが桶を持ち上げて、よろけて、笑われている。
その笑い声が、朝の空気をまっすぐに渡ってくる。
わたくしにも、ちゃんと聞こえる。聞こえるのに、あの娘には、わたくしの声が一言も届かない。
◇
その日、わたくしは一日じゅう、ひとつの考えと戦うことになる。
言わなければよかった。
――そう思ってしまったのである。
あの娘に、順を決めたのは侍女頭だと伝えなければ、あの娘はいまも泣いている。泣いていれば、わたくしが見える。見えていれば、わたくしはまだ、あの娘の中に居られる。
黙っていればよかった。
その考えが浮かんだ瞬間、自分を殴りたくなる。殴る手が、自分を通り抜けるとしても。
十九の娘に、三日ぶん泣かせておけばよかった、と。
そう考える女が、無実だの、証しだのと言っている。
――わたくしは、いったい何を返してもらいたいのだろう。
「ズィーバー様」
昼過ぎ、薬院の卓の向かいで、わたくしは口を開く。
「わたくし、たいへん醜いことを考えました」
「どうぞ」
「あの娘に、黙っていればよかったと思いましたの」
「はい」
「そうすれば、あの娘にはまだわたくしが見えました。……わたくしは、人ひとりの苦しみを、自分がここにいるための燃やしものにしようとしたのでございます」
あの方は筆を止めて、しばらく考えておられる。
「ルイーゼ様。それは、考えただけです」
「考えただけでも、でございます」
「考えただけです。あなたは昨日、実際には言った」
「言わなければよかったと、いまは思っております」
「思っておられても、言ったことは消えません」
筆が、また動きはじめる。
「慰めてくださっているのですか?」
「いいえ。数えているだけです」
その言い方があまりに平たかったので、わたくしは少し笑ってしまった。
笑ってから、また息が詰まる。
「……では、これから先も、同じことが起きますのね?」
「はい」
「ケストナー様の署名の重さが晴れたら、あの方にも見えなくなります。父にも、いつか」
「そうなります」
「わたくしの無実が、もし証されましたら」
あの方が、はじめて目を伏せられた。
その先を、二人とも口に出さない。
証されれば、皆様の負い目は晴れる。晴れれば、誰の目にもわたくしは映らなくなる。無実を証すということは、この世からもう一度、いなくなるということである。
わたくしは指を折ろうとする。折れない。
それでも数える。ズィーバー様。ケストナー様。二人。
昨日まで三人だった。
「ズィーバー様」
「はい」
「わたくしは、皆様をお救いするたびに、お一人ずつ、お別れするのでございますね」
◇
夕方、聖橋広場の北の台で、花売りの女が、片づけをしながらひとりごとを言うのを聞く。
「きれいな娘さんだったねえ。あんな騒ぎは久しぶりだよ。……ええと、なんの罪だったかね。毒だったか、火付けだったか。まあ、どちらでもいいさ。花は売れたんだから」
この方には、わたくしが見えない。
三日で、もう思い出せないらしい。負い目のない方というのは、こういう顔をしておられる。




