3. 疑わないわけにはまいりません
三人目は、杖を落とした。
裁定所の三階、書棚に囲まれた小さな部屋である。天井まで届く棚に、年ごとに括られた綴じが詰まっていて、床から三段目のあたりだけ背が新しい。
紙と、膠と、埃。そういうものでできている部屋である。
耳だけが、やけによく働く。頁をめくる音。綴じ紐の軋み。二階下の階段を上ってくる、誰かの靴。
あの方が合議録の閲覧を願い出て、扉が開いた、その瞬間である。
白髪の老人が、こちらを見て、手から杖を離したのである。
「――ルイーゼ嬢」
乾いた音を立てて、杖が床を転がってゆく。
「見えて、おられますの?」
「見えております。……ああ。とうとう、老いたか」
その方は、椅子の肘掛けを探るように手を動かされた。
指の関節が太い。長く筆を持ってきた人の手である。その手が、いま少しだけ震えている。
「老いてはおられません。その目は、正しゅうございます」
「正しい目が、なんの役に立つ」
わたくしは、その方の名を知っている。オットマール・ケストナー。〈宮中即決の条〉によってわたくしを裁いた、三名の裁定官のおひとりである。
あの方が杖を拾い、老人の手に返す。
「ズィーバーと申します。薬院の医官です。九の月十四日の合議録を、拝見したく」
「見せられん。……いや」
ケストナー様は、腰を下ろされた。
「見せられんのだが、あの日から、あれをもう一度読まぬ日がない。読むたび、同じところで止まる」
「どこでございますか?」
「わしの署名だ」
「ご署名を」
「わしの名だ。わしの字で、わしの手で書いた。写しを見るたび、そこで指が止まる」
その方は、机の引き出しから写しを取り出される。
「わしは保留と述べた。三名のうち、わしひとりが。証しがひとつ足りぬ、と」
「――述べてくださったのですね」
「述べたとも。述べて、そして押し切られた。二対一だ。多数が決まれば、少数も署名する。それが合議というものでな」
わたくしは、その二つのあいだにある距離を測ろうとする。
述べることと、署名すること。
そのあいだには、たしかに何かがある。けれど、それが指何本ぶんの隔たりなのか、わたくしには測れない。
――述べてくださったのだ。
――述べて、そのあと、署名なさったのだ。
二つの思いが、胸の同じ場所で押し合っている。片方を立てれば片方が倒れる。倒れたほうが、また起き上がってくる。
二十一年生きてきて、こういう気持ちに名前がついていないことを、わたくしはこのとき初めて知った。
「ケストナー様」
「なんだ」
「保留とお述べになったのは、どの証しについてでございますか?」
「三の要件よ。毒が、その者の手によって加えられたか。……そこだ」
「験しで示されていた、とお思いにはならなかった」
老人が、写しの端を指で押さえる。
「思わなんだ。だから保留と申した」
あの方の指が、わずかに動く。
わたくしにだけ分かる動きである。三本立てて、三本目を折る。あの朝の広場と、同じ形。
この方は、たぶん、無意識になさっている。数えることが体に入っている人なのだと思う。
――わたくしも、数える人になってしまった。
「あの験しは、あの晩のうちに済んだと聞いておる。急ぎすぎだ、と申したのだ」
「……胸に留めておきます」
わたくしは、それ以上を言えない。
この老人の負い目は、わたくしを死なせた署名である。そして、その署名を止めようとしてくださったのも、この方だけなのだ。
三名のうち、この方だけが見える。
あとのお二人には、たぶん、見えていない。
――けれど、なぜ見えないのかは、わたくしには分からない。
関わったと思っていないのか。過ちだと思っていないのか。もう済んだと思っておられるのか。三つのうちのどれが欠けているかまでは、外からは見えない。見えないという一事だけが、こちらに届く。
――やさしい方ほど、見える。
その理屈が、はじめて胸の底に落ちてきた。
落ちてきて、そこで冷たくなる。
◇
裁定所を出て、石段を下りる。
外は晴れていて、昨日の雨で洗われた石が、白く光っていた。
わたくしには足音がない。だから、あの方はときどき振り返って、わたくしがついてきているかを確かめられる。
振り返る回数が、朝より増えている。
「ズィーバー様。ひとつ、お話ししてよろしいですか?」
「どうぞ」
「毒見役のヤコブが、広場の端でひとりごとを申しておりました。三口、確かにいただいた、毒の気配などなかった、と」
「ヤコブが……?」
「はい。それから妃殿下が、居間で。あの子はよく気のつく子だった、と」
あの方は歩きながら、しばらく黙っておられた。
「ルイーゼ様。それは、どこにも出せません」
「……出せませんの?」
「あなたが聞いた、というだけでは、誰も動きません。わたしが法廷で申し上げても、聞いた者がおらぬ話です。書いた紙もありません。あなたは筆を持てない」
「――そうでございますね」
石段の下で、わたくしは立ち止まる。
わたくしの耳は、どこへでも入れる。
閉じた戸の中には入れないけれど、開いている窓の下にも、廊下の隅にも、卓のすぐ横にも立てる。誰も気にしない。気にしようがない。この世でいちばん盗み聞きの上手な者に、わたくしはなった。
その耳が、なんの役にも立たない。
聞いた話は、紙にならない。紙にならないものは、どこへも出せない。
――わたくしは、証しを一枚も持てない女になったのだ。
「ズィーバー様」
「はい」
「わたくしにできることは、何かございますか?」
あの方は、少し考えてから答えられる。
「あります。あなたにしか、聞けない場所があります」
「けれど、証しにはならないと」
「なりません。ですが、どこを探せばよいかは分かります。……探すのは、わたしがやります」
道の先で、荷馬車が石を踏んで鳴る。
◇
夕方、東翼へ戻った。
厨の裏の戸が半分開いていて、湯気と、鍋を洗う音が出てくる。
侍女頭のベルヒタが、若い侍女を叱っている。わたくしは、その二人のちょうど真ん中に立っていた。手を伸ばせば届く距離である。誰もこちらを見ない。
「順を決めるのはわたしです。あの晩もそうでした。よそから口を出されようと、わたしが決めたのです」
――順。
わたくしは、その言葉を持って、フリーダを探した。
洗い場の隅で、その娘は膝を抱えている。
膝の上に、たたんだ布巾を握ったまま。目が腫れていて、まぶたが二重に見える。
わたくしを見つけて、また泣きそうな顔になる。
「フリーダ」
「お嬢様……」
「あの晩の順は、あなたが決めたのではないそうよ」
「え」
「侍女頭が、いまそう申しておりました。順を決めるのはわたしです、と」
わたくしは、厨のほうを顎で示す。届く仕草ではないと知りながら。
「そんな」
「聞いたのです。すぐそこで」
フリーダの顔が、ゆっくりと変わってゆく。
泣き腫らした目のまわりから、力が抜けていくのが分かった。何かが、この娘の中から降りていく。
「……ほんとうに?」
「ほんとうです。お確かめなさい。あの方は、ご自分で決めたと、はっきりおっしゃっておいででした」
「あたし……あたし、ずっと」
「ええ」
「ずっと、あたしのせいだと」
そこで、この娘は声を上げて泣いた。
幾日ぶんかの泣き方である。肩が上下して、握った布巾がぐしゃぐしゃになって、鼻をすする音が洗い場に響く。
わたくしは、そのそばに立っている。
背中をさすってあげたい。肩を抱いてあげたい。どちらもできないので、ただ立って、泣き終わるのを待つ。
このとき、わたくしはただ、この娘を楽にしてあげたかった。
それだけだったのである。
――そのあと何が起きるかを、わたくしは知らなかった。書かれていたのに。今朝あの部屋で、読んでもらったばかりだったのに。
◇
夜。薬院の窓の下に、灯がひとつ点いている。
二階の右から三つ目。あの方が、まだ働いておられる。
医官というのは、こんなに遅くまで起きているものなのだろうか。それとも、この方だけなのだろうか。
わたくしは窓の外に立って、その灯を見ている。それから、開いた窓へ声をかけた。
「ズィーバー様」
「はい」
「申し上げておかねばならないことがございます」
あの方が顔を上げる。
「わたくしにあなたが見えるということは、あなたがわたくしの死に負い目をお持ちだということでございます」
「はい」
「ですからわたくしは、あなたを疑わないわけにはまいりませんの」
言ってしまってから、心臓のあたりが痛くなった。
――いえ。痛くはならない。痛くなるはずのところが、ただ静かなだけである。
こういうとき、生きている体は勝手に痛んでくれる。痛んでくれるから、自分がひどいことを言ったのだと分かる。いまは、それも分からない。
だから、言葉だけが残る。取り消せない形で。
あの方は、筆を置かれる。
そして、こうおっしゃる。
「では、疑ってください。そのほうが、わたしも息がしやすい」
◇
その日の昼、裁定所の二階の廊下で、次席のエーレルト様とすれ違った。
わたくしを裁いた三名のうちの、おひとりである。
「保留などと言い出すから、長引くのだ。証しは揃っておった。三つとも揃っておったではないか。老いた者は、どうも往生際が悪くていかん」
この方には、わたくしが見えない。
肩の高さまで顔を寄せてみたけれど、まばたきひとつなさらなかった。




