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2. 五つの則

 夜が明ける。


 わたくしは王立薬院の門前に立っていた。


 立っている、というより、立ったままでいる、と申し上げるほうが近い。石段に腰を下ろそうとしても、そこへ沈まないのだ。眠くならない。疲れもしない。腰も、足も、少しも痛まない。


 ――戸が、開かないのである。


 昨夜、あの方は「明日の朝、ここへ」とおっしゃって門をくぐっていかれる。追いかけようとして、わたくしは閉じた戸に鼻先をぶつけた。痛くはない。ただ、そこから先へ進めないだけである。


 通り抜けられるものだと思っていた。子供の頃の絵物語では、そうだったから。壁を抜け、床を抜け、寝ている人の枕元へふわりと立つ。ああいうことが、幽霊にはできるのだと。


 できない。


 できないので、夜のあいだ、わたくしはずっとここに立っている。


 時を知らせる鐘が、六度鳴るのを数えた。九つの鐘のあと、東の空がゆっくり灰色になり、屋根の輪郭が浮いてきて、それから雨が降りはじめる。


 濡れない。髪も、肩も、そのまま。


 だから雨の日は、音だけが増えるのだと知った。屋根を打つ音。石畳が跳ね返す音。(とい)の口から落ちて、桶の底を鳴らす音。


 わたくしの上を、音がまっすぐ通り過ぎてゆく。


 二十一年、雨は肌にかかるものである。冷たくて、鬱陶しくて、髪を台無しにするもの。それが、ただの音になっている。


 ――ずいぶん静かなところへ来てしまった。


「――お待たせしました」


 戸が開いて、あの方が出てこられる。


「ずっと、そこに」


「はい」


 その方は少し目を伏せ、それから戸を大きく開け放って、そのまま押さえていてくださった。


 押さえたまま、待っておられる。


 わたくしがくぐるには、それだけの時が要る。足音のしない者が、どこまで進んだか、この方には分からない。だから、たっぷり待ってから、静かに閉められた。


「どうぞ」


 わたくしは、その戸をくぐる。


 ありがとうございます。


 ――そう申し上げようとして、言えなかった。


 喉のあたりまで来た言葉が、そこで止まる。止めたのは、わたくし自身である。


 この方に礼を申し上げるということは、この方の負い目を撫でるということである。撫でれば、少し軽くなる。軽くなれば、いつか消える。


 楽になっていただきたくない、という気持ちが、たしかに、わたくしの中にある。


 ――昨日の朝まで、わたくしはこんな女ではなかったはずである。


「ズィーバー様。ひとつ、伺ってもよろしいですか?」


「どうぞ」


「なぜ、止めてくださらなかったのですか?」


 あの方の手が、戸から離れる。


「間に合いませんでした」


「それだけでございますか?」


「いいえ。……ですが、合議録を見てからお話しします。順を追わないと、言い訳になりますので」


 言い訳になります、と、その方はおっしゃった。


 わたくしは、それ以上を聞かない。



       ◇



 薬院の奥の部屋には、乾いた草の束が天井から吊るしてある。


 生きていたころなら、戸を開けた途端に、鼻の奥まで来たはずのものである。いまは、束の影が壁の上で揺れているのが見えるだけ。


 天井まで届く棚が三方を囲み、硝子(ガラス)の壺が段ごとに並んでいる。窓は高いところに一つきり。そこから落ちる薄い光の中で、埃がゆっくり回っているのが見えた。


 埃は、わたくしの体を避けない。まっすぐ通り抜けて、向こう側へ出てゆく。


「これを」


 卓の上に、古い()じ本が置かれる。


「二百年ほど前の医官の私記です。棚の整理で出てきました。誰も真に受けておりません」


「なんと書いてございますの?」


「〈死者の見えについて〉。則が五つ、並んでおります」


 その方は頁をめくり、指で押さえて読み上げられる。


「一の則。死者の姿が見え、その声の届く者は、次の三つを同時にみずから思う者に限る。おのれの行い、または行わざりしことが、その死に関われること。それは、してはならぬことなりしこと。その償い、いまだ済まざること。――事実によらず、思いによる。三つのうち一つを欠かば、見えず」


 わたくしは、昨日の広場を思い出す。


 父にも、ラースロー様にも、わたくしは見えなかった。あれだけ呼んだのに、どちらも一度もこちらを向かれない。見えたのは、験しの手順をひとつ飛ばしたこの方だけ。


「……三つ、でございますね」


「三つです」


「関わったと思うこと。してはならぬことだったと思うこと。まだ償っていないと思うこと」


「はい。事実によらず、思いによる、と書いてあります」


 思いによる。


 その一行の意味を、わたくしはこのときまだ半分しか分かっていなかった。


「二の則」


 そこで、あの方の声が止まる。


「――破れております」


 頁の下半分が、無い。ぎざぎざの縁だけが残っている。


「〈見ゆる理由は二つあり〉。この一行だけが上に残って、そのあとが失われております」


「二つ、ございますの?」


「はい。ひとつは、いま読んだ一の則です。もうひとつが、ここに」


 その方は、破れた縁を指でなぞる。


「三の則。改まるは夜明け。判定は朝ごとに一度、その日は変わらず。日のあるうちに思いを得たる者も、見ゆるは翌朝より。ただし死したる当日にかぎり、死したるその瞬間に、はじめの判定を行う」


 朝ごとに、一度。


 では、毎朝、わたくしを見る人の数が変わるということになる。増えることも、減ることも。


「……死んだ当日だけは、別なのですね」


「そう書いてあります」


「昨日の朝、あなたが広場で見えたのは、そのためでございますか?」


「たぶん。夜明けを待たずに、あの場で一度、数えられたのだと思います」


 数えられた、という言い方が、妙に体に残る。


「……昨日と今日で、違うということでございますのね?」


「そうなります。四の則。三つのいずれかを欠きたる者には、翌朝より見えず、声も届かず。見えと声は、必ず共に来たり、共に去る。半ばということなし」


 部屋が静かになった。


 雨の音だけが、窓の外にある。


「――欠けたら、でございますか?」


「欠けたら、です」


「たとえば、償いが済んだと、その方が思われたら」


「……そうなります」


 あの方は、そこで一度だけ頁から目を上げられた。


 わたくしは、まだこの則の底を見ていない。見ていないのに、足の裏のあたりが妙にすうすうする。深いところへ、うっかり足を踏み出したときの感じである。


「五の則。死者は物に触れず、閉じたる戸を抜けず、筆を持たず、涙を落とさず。歩き、見、聞き、見ゆる者にのみ語る。これのみを能くす。見えざる者の前にも立ち得るが、ただ、見えておらぬだけである」


「……戸が開かないのは、そのためでございますのね?」


「はい」


 あの方は、私記を閉じずに置かれる。


「わたくしは、字も書けませんの」


「試されましたか?」


「まだでございます。けれど、たぶん」


 わたくしは卓の上の羽根ペンへ手を伸ばす。


 指が、軸を通り抜けてゆく。


 もう一度。今度は、掴むというより、そっと触れるつもりで。


 結果は同じである。羽根の先が指の関節のところで消えて、手のひらの向こうから出てくる。三度目はやめた。


 字を書くのは、二十一年でいちばん長く続いた(たしな)みである。


 母に教わって、七つの年から書いていた。書帖(しょじょう)の罫からはみ出さないように、(ふで)の腹を寝かせて、ゆっくり。うまく書けた日は、母が余白へ小さな丸を書いてくださる。


 ――もう、丸をいただくことはない。


「……五つとも、合っております」


「そのようです」


「ひとつだけ、伺ってもよろしいですか?」


「どうぞ」


「わたくしが〈やっていない〉と、いつか誰かに書いていただくとして」


 わたくしは、通り抜けた指を見ていた。


「その紙を、わたくしは一枚も、自分では持てないのですね」


「……はい」


 その方は、嘘をつかれない。


 慰めもなさらない。そこだけは、はじめから一貫しておられる。



       ◇



 昼過ぎ、王宮東翼(とうよく)の門前まで歩く。


 三年通った場所である。女官見習(にょかんみなら)いとして、朝ごとにこの門をくぐった。


 門柱の右の角が欠けている。四年前、荷馬車がぶつけたのだと聞いた。左の敷石だけが妙にすり減っている。皆が同じところを踏むからである。


 そんなことを、わたくしはまだ全部覚えていた。


 衛兵はわたくしを見ない。門は閉まっている。だから、立っているだけ。


 そこへ、侍女がひとり出てきた。


 フリーダ。十九歳。王弟家の侍女で、よく喋る娘である。


 その娘が、わたくしを見る。


 見て、桶を落とした。


「お嬢様……?」


 水が石畳に広がり、わたくしの足元まで来て、素足の下を通り過ぎてゆく。


「お嬢様! お嬢様、お嬢様――」


「フリーダ。落ち着いて」


「だって、あたし、昨日……昨日、広場で、見ました。見たんです」


「そう」


「なのに、どうして……?」


 どうして、とわたくしも思う。


 いえ。本当は、思っていない。


 わたくしは、もう答えを知っている。夜明けに改まる。この娘は昨日わたくしを見ていない。今朝から見えるようになった。つまり――昨日の広場で、この娘の中に三つが揃ったということである。


「フリーダ。ひとつだけ教えてくださる?」


「は、はい」


「八の月二十九日の晩。殿下に杯をお持ちしたのは、わたくしでしたね」


 フリーダの顔が、そこで白くなる。


「……あれ、あたしの番だったんです」


 膝から崩れるように、その娘はしゃがみ込んだ。


「あたしが泣いてたから、お嬢様が代わってくださったんです。あたしのせいなんです。あたしが泣いたりしなければ」


 あの晩のことを、わたくしは覚えている。


 厨の隅で、この娘が肩を震わせていた。故郷の母上が寝ついたという知らせが、その日の昼に届いたのだと言う。わたくしは、ただ、代わりましょうと申し上げた。それだけである。深く考えたことなど、一つもない。


 やさしさでもない。手が空いていた。ただ、それだけのことである。


「フリーダ。お顔をお上げなさい」


「でも」


「あなたのせいではございません」


 わたくしは、しゃがんだその頭に手を置こうとして、置けない。


 置けないと知っていて、それでも手を伸ばしたのである。


 少し離れたところで、あの方が待っておられる。こちらを見ないようにして、立っておられた。


 ――二人目。


 数えると少し落ち着く。


 数えているあいだは、自分がどこにいるか分かる気がするのだ。一人。二人。輪郭のないものに、印をつけていくような。


「ズィーバー様」


「はい」


「わたくしが見える方を数えてまいりましたら、あの晩に関わった方が、みな分かるということでございますね」



       ◇



 その夜。東翼の、妃殿下の居間の窓の下に立った。


 雨は上がって、庭木の葉から雫が落ちている。中から、ひとりごとが聞こえる。


「あの子は、よく気のつく子だったわ。ほんとうに。よく気のつく、いい子でした」


 この方には、わたくしが見えない。窓を開けてこちらを向かれても、たぶん見えない。


 ――亡くなったのは殿下でございます。わたくしのことを、そんなにお早く、過ぎたことになさらないで。

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