1. わたくしが見える方
聖歴五一二年、九の月十七日。
朝の光が、聖橋広場の石畳を白く灼いている。
秋のはじめの、よく晴れた日である。空が高い。二十一年生きて、これほど気持ちのよい朝を、わたくしは何度も知らない。
その朝に、わたくしは処刑台の上で膝をついていた。
膝の下の板は、思ったより冷たくない。前の晩に降った雨が乾ききらず、木の匂いが立ちのぼってくる。縄は手首の骨のところで少しだけ緩んでいて、それを直そうとして、直しても意味がないと気づく。
人の声が、下から寄せてくる。
波のようだ、と思った。近くの声はことばで、遠くの声はただの音で、いちばん遠いところでは、それがひとつの唸りになっている。
「アルテンブルク伯爵家息女、ルイーゼ・アルテンブルク」
読み上げの声が、その唸りを二つに割った。
「王弟ジークムント殿下に毒を盛りし罪により、〈宮中即決の条〉に照らし、これを断ずる」
条の三つの要件が、続けて読み上げられる。
「一、王族に対する加害であること」
「二、その者が、その場に居合わせたこと」
「三、毒または凶器が、その者の手によって加えられたと、験しによって示されること」
「――三つ、揃うておる」
揃っておりません。
「――最後に申し述べることがあれば、いま述べよ」
読み上げの方が、書き付けから顔を上げられる。
「ございません」
「ないのか?」
「三度、申し上げました」
わたくしの声は、自分でも驚くほど落ち着いている。
「合議の場で、三度でございます。三度とも、書き留めてはいただけませんでした。四度目を、この場で申し上げる理由がございません」
読み上げの方は、何もおっしゃらずに書き付けを畳まれる。
二度目まではまだ、言葉に力があった。三度目のとき、自分の声が誰の耳にも入っていないと分かってしまう。そういう分かり方をすると、人は、それきり黙るものらしい。
うつむいた先に、自分の髪が一房落ちている。二十一年かけて伸ばしたものが、ひと息で短くなっている。
昨日の夕方、牢の格子ごしに、母が櫛を通してくださった。
切られると分かっている髪に、母はずいぶん長いこと櫛を入れておられる。歯が地肌に触れるたび、母の手が震えているのが伝わってくる。
「お母様。もう、およしになって」
「……もう少し」
「痛くはございませんけれど」
「痛いのは、わたくしのほうです」
それきり、母は何もおっしゃらない。わたくしも、何も申し上げなかった。
風が吹く。項が冷たい。
この冷たさだけは、最後まで覚えていよう。
――刃の音がした。
その音が、やけに遠い。
◇
目を開けると、わたくしは立っている。
台の下である。石畳の上に、素足で。
どうやって降りたのか、覚えがない。降りた記憶がないのに、もう降りている。眠りに落ちる瞬間を、人が誰も覚えていないのと同じことなのだと思う。
足元に、人がひとり倒れていた。
白い服。短い髪。首のところだけが、赤い。
「……あら」
その人は、わたくしである。
不思議なことに、恐ろしくはない。
落とし物を見つけたときの気持ちに、いちばん近い。ああ、そこにあったのか、という程度の。悲鳴も出なければ、膝も震えない。二十一年ぶん使ってきた自分の体が、そこに転がっているというのに、心のほうがまるで追いついてこないのである。
顔を上げると、広場は人でいっぱいだった。
「終わったぞ」
「三度もかかったな」
「あれで名人だってんだから」
「見なきゃよかったよ。あたしゃ、もう」
誰かが子供の目を手でふさいでいる。
「静かにおし。まだ台の上だよ」
「二十一だってさ。うちの下の娘と同じだ」
人々が動きはじめる。
わたくしは手を伸ばした。近くにいた男の肩に触れる――触れない。指がそのまま、肩を通り抜けてゆく。
もう一度、今度は掌をひらいて、思いきり。
同じことである。手首から先が、他人の外套のなかへ沈み、何にも当たらずに反対側から出てくる。
痛くない。冷たくもない。何も、ない。
その何もなさが、いちばん恐ろしい。
「お父様」
人の波の向こうに、父がいた。
「お父様。ここでございます。ここに」
父はわたくしのほうを見ない。台の上の白い服を一度だけ見て、目を伏せ、背を向けてしまう。
伯爵家の当主らしい、背筋の伸びた歩き方だった。子供の頃、その背中を追いかけて廊下を走り、叱られたことがある。廊下は走るものではない、と。
その少し後ろに、ラースロー様がいらした。二週間前まで、わたくしの婚約者でいらした方である。
「ラースロー様」
その方も、わたくしを見ない。
誰も、立っているほうを見ないのだ。皆、倒れているほうを見て、それから帰ってゆく。
わたくしは広場の真ん中で、人が減っていくのを眺めていた。
鐘が鳴る。鳥が飛ぶ。パンの匂いがする――いえ、しない。匂いはしない。したような気がしただけである。
嗅ごうとして、鼻から息が入ってこないことに気づく。息が入らないのに、息が苦しくもならない。人の体というのは、ずいぶん多くのことを、勝手にやってくれていたものらしい。
やがて広場には、水を撒く者と、片づける者と、わたくしだけが残る。
――いえ。
もうひとり、立ち止まっている方がいた。
若い男の方である。灰色の上着。王立薬院の医官の装いだと知るのは、あとのこと。
その方は、台の上を見ていない。
わたくしのほうを、まっすぐに見ている。
「――ルイーゼ様」
名を、呼ばれた。
わたくしは半歩、下がる。
縋りたかったのだと思う。だからこそ、下がったのだ。手を伸ばして、また通り抜けたら、今度こそ何かが壊れる気がした。
「……わたくしが、見えますの?」
「見えております」
「触れられますか?」
「いいえ」
その方は手を伸ばさない。伸ばして通り抜けるところを、わたくしに見せまいとされたのだと、あとになって気づく。
「他の方には、見えておりません」
「はい」
「どなたも、こちらをご覧になりません。父も、あの方も」
「見えておられないのだと思います」
「では、なぜ、あなたにだけ?」
その方はしばらく黙っておられる。
石畳を洗う水の音。桶の置かれる音。遠くで荷車が石を踏む音。
音ばかりが、やけにはっきりと聞こえる。
「わたしは、王立薬院のジーモン・ズィーバーと申します」
「存じません」
「ご存じないはずです。お目にかかったことはありません」
「では、なぜ?」
「殿下の杯の残りを験したのは、わたしです」
風が止まった。
「験しには手順が三つございます。器の内側を削り取ること。削ったものを、生きた鼠で験すこと。そして――注ぐ前の酒瓶の中身も、同じやり方で験すこと」
その方は指を三本立て、それから三本目を折られる。
節の目立つ、荒れた指だった。薬草の汁が染みたのだろう、爪のふちが薄く緑がかっている。
「わたしは、三つ目をやっておりません」
「……なぜ?」
「瓶が、もう片づけられておりました。急かされて、そのままにしました」
わたくしは、その方の顔を見る。
目の下が黒い。何日も眠っておられない顔である。髭の剃り跡が斑になっていて、襟の折り目が左右で合っていない。
「昨夜、気がつきました。三つ目をやっていれば、あの験しは、あなたが加えたことの証しにはならなかった」
「昨夜、でございますか?」
「はい。十六日の夜でございます」
その方の顎の線が、そこで一度、固くなる。
「――では」
「はい」
「間に、一晩ございましたのね?」
「……一晩、ございました」
「あなたには、なぜ、わたくしが見えるのですか?」
ジーモン・ズィーバー様は、まっすぐにわたくしを見て、こう答えられる。
「わたしが、あなたを殺したからです」
◇
その日の夕暮れ。広場の端で、毒見役のヤコブが、誰にともなく言うのを聞く。
「三口。三口、確かにいただいたのだ。毒の気配などなかった。殿下がお倒れになるまで、わたしはずっとおそばにおりましたとも。……なかったではないか。何も」
この方には、わたくしが見えない。
だからこの言葉は、どこへも持ってゆけない。




