第六章 湯気が消えるまで
三日後の夕方、僕は一人で荒木町の坂を下りた。
前に来たときより、日の暮れるのが早くなっていた。車力門通りの石段の脇で、誰かの家の金木犀が最後の花を落としていた。路地の水たまりに、橙色の細かな花が浮いていた。濃く重い香りが、坂の下の窪地に溜まって、なかなか抜けていかない。
なるみの暖簾は、前と同じ藍だった。僕は暖簾の前で一度だけ立ち止まり、紺のセーターの袖口を引っ張って、手首を隠した。それから暖簾をくぐった。
若い檜の匂いがした。
口開けの時間で、カウンターに客はまだ一人もいなかった。若い板前が、真ん中の席を勧めた。僕は首を振り、前と同じ端の席に座った。
先付が出た。春菊と菊花のお浸しは、黄色い菊が胡桃の和え衣に変わっていた。八寸は、栗が焼き栗になり、柿の白和えが無花果の胡麻だれになっていた。季節が、この十日あまりで一歩だけ進んでいた。
僕は一品ずつ箸をつけた。熱いものは熱く、冷たいものは冷たかった。胡桃の衣は舌の上でざらりと崩れ、焼き栗の皮の焦げた匂いが鼻へ抜けた。
三皿目の前に、奥の暖簾が揺れた。
僕は、顔を上げなかった。
藍の作務衣の裾が、視界の端を横切った。足音が板場の奥で止まり、また動き、僕の前で止まった。
黒い漆の椀が、カウンターの上に置かれた。
縁に細い金の線。葵屋のものより少し小ぶりの椀。蓋の上に、天井の灯りが細長く映っていた。
椀を置いた手が、すぐには引っこまなかった。指の長い、乾いた手だった。親指の付け根に、古い火傷の痕が白く残っていた。その手が、カウンターの縁から静かに離れていった。
僕は椀だけを見ていた。
蓋に指をかけた。漆の、しっとりと吸いつくような手触り。椀の熱が、蓋の縁を通して指先に届く。
息を、止めた。
蓋を、持ち上げた。
最初に来たのは、柚子だった。
蓋の裏の暗がりから解き放たれた湯気が、まっすぐに顔へ上がってくる。その先頭に、柚子の皮の、青く鋭い香りが乗っていた。松葉に切った皮の、切り口から滲んだ油の匂い。冷たい刃物のように鼻の奥へ差しこんでくる。
一秒。
柚子のすぐ後ろから、もう一つの香りが追いかけてきた。
重かった。蓋の裏の漆に霧となって吸いついていた酒が、湯気に温められて、いっせいに立ち上がってくる。炊きたての米の、ふっくらとした湯気の匂い。その奥に、乳のような、ほのかに酸の立った、まろやかな重さ。日向に置いた牛乳の、膜が張る寸前の匂いに似ていた。ひと晩かけて温めた米の粥のようでもあった。柚子の鋭さの下に、その重さがゆっくりと沈んでいく。
二秒。
昆布と鰹の香りが、その下からようやく顔を出した。磯の、濡れた苔のような気配と、燻した木の匂い。それが、酒の重さと柚子の鋭さのあいだに滑りこみ、三つの層が、湯気の中で一瞬だけ重なった。
三秒。
そして、すべてが溶けた。
湯気が椀の縁から溢れ、カウンターの上の空気に混ざり、檜の匂いに吸いこまれていく。柚子の鋭さも、酒の重さも、だしの気配も、同じひとつの、ただの温かい湯気の匂いになった。もう、どれがどれだか分からない。
僕は蓋を手にしたまま、動けなかった。
焦げた蜜の香りは、どこにもなかった。
毎晩、葵屋の椀の蓋の裏から嗅いでいた、古い樽と干し柿と醤油の焦げの香り。大女将の霧吹きの、先代の蔵の香り。それがなかった。代わりにあったのは、炊いた米と乳の、重くまろやかな香りだった。
あの夜、僕もこの三秒を落としていた。
蓋を開けたとき、僕は暖簾の奥の目を見返していた。湯気が上がり、香りが立ち、三秒で溶けて消えるあいだ、僕の鼻は、椀ではないところを向いていた。
鷹野さんと、同じだった。
僕は蓋を盆に置き、椀を両手で持ち上げた。吸い地を、ひと口含んだ。
熱い。昆布と鰹の香りが、口の奥から鼻へ抜ける。柚子の油が、舌の上で一瞬だけ香る。しんじょの海老の気配。
それだけだった。
僕には、この椀の塩梅が分からない。
二年前の冬、仕入れの帰りに、自転車で坂を下りていて転んだ。凍った石畳で、前輪が横に滑った。頭を打って、三日入院した。退院した日の夜、母が送ってくれた蜜柑を食べて、何かがおかしいと気づいた。蜜柑の香りはした。皮を剥いたときの、指に残る油の匂いも分かった。けれど、口の中に入れたとたん、それが遠くなった。甘いのか、酸っぱいのか。濃いのか、薄いのか。舌の上に、何かが確かにあるのに、それが何なのかが分からない。
病院には半年通った。いろいろな検査をして、いろいろな薬を飲んだ。医者は、時間がたてば戻ることもある、と言った。戻らないこともある、とも言った。二年たって、戻らなかった。
だから、塩は秤で量る。昆布の具合で変わる塩の量を、毎朝、帳面に書く。味見のあとは、久住さんの顔を見る。眉が右に上がれば、塩が立っている。動かなければ、それでいい。大女将の声の調子を聞く。客の顔を見る。仲居が運んでくる言葉を、一つ残らず帳面に書きつける。
香りだけは、残っていた。
椀の中で、吸い地が静かに揺れていた。湯気はもうほとんど立っていなかった。
鷹野さんは、嘘をついていなかったのだと思った。
寸分違わぬ、と鷹野さんは言った。塩も、昆布の引き方も、うちと同じだ、と。本当にそうだったのだ。紙が同じなのだから、塩梅が同じなのは当たり前だった。違っていたのは、蓋の裏の数滴だけで、それは蓋を開けた三秒のあいだしか、そこにない。鷹野さんは、目を閉じて、吸い地を待っていた。舌で待ち構えているあいだに、三秒は過ぎていた。
椀は、蓋を開けた三秒で決まる。
先代のその言葉を、大女将は健太に教えていた。健太は、お客の気持ちを最初の三秒で掴め、という意味に受け取った。大女将は笑って、答えなかった。
「お客さん」
低い声がした。
顔を上げると、カウンターの向こうに鳴海さんが立っていた。藍の作務衣の袖を肘まで捲り上げ、手拭いを片手に持っていた。
「葵屋の、湊くんだね」
僕は頷いた。
「前に来たとき、久住さんと一緒だった。それから、鷹野と」
鳴海さんは、鷹野、と呼び捨てにした。
「今日は、一人で何を確かめに来たの」
僕は椀を置いた。
「この酒は、大女将の椀の酒ではありません」
鳴海さんの手が、止まった。
手拭いを持った手が、カウンターの縁の上で宙に浮いたまま、しばらく動かなかった。
「大女将は、月見椀の紙を、三通りに書き分けていました。蓋の裏の酒だけを、紙によって変えて。この椀の酒は、そのうちの一枚のものです。大女将が毎晩吹いている酒とは、違います」
鳴海さんは、僕の顔を見ていた。前に来た夜と同じ、何かを確かめるような目だった。
それから、手拭いをゆっくりとカウンターの上に置いた。板場の奥へ行き、棚から小さな硝子の霧吹きを取ってきた。葵屋のものとよく似ていたが、首に組紐は巻かれていなかった。
鳴海さんは霧吹きの首を回し、自分の鼻先に近づけた。目を閉じ、長く息を吸った。
それから霧吹きの首を元に戻し、カウンターの上に置いた。
手を洗った。流しの水を長く出したまま、指の一本一本を、爪の間まで丁寧に洗った。手拭いで拭いた。
もう一人の客が暖簾をくぐってきた。鳴海さんは顔を上げ、いらっしゃいませ、と言った。いつもと変わらない声だったのだろうと思う。それから、新しい客の先付の器を棚から下ろしはじめた。
勘定を済ませたとき、鳴海さんが釣り銭を渡しながら、低い声で言った。
「閉めたら、もう一度来てくれ。十時には終わる」
僕は暖簾をくぐって、窪地の路地へ出た。荒木町の底には小さな池があって、弁天様の祠が水際に立っている。僕はその石の縁に腰を下ろし、三時間近く、店々の灯りが一つずつ消えていくのを見ていた。池の水は、濡れた落ち葉と、どこかの店の焼き鳥の煙の匂いがした。
十時過ぎに戻ると、なるみの暖簾は下ろされていた。格子戸を引くと、鳴海さんがカウンターの端に、湯呑みを二つ置いた。焙じ茶だった。
「鷹野から買った」
鳴海さんは、湯呑みを両手で包んだまま言った。
「ミツハの戸倉さんを通して、支度金という名目で。うちの料理長に来ないかと、何度も誘った。来なかった。代わりに、紙を売った」
鳴海さんは、湯呑みの縁を親指でなぞった。
「紙を渡すとき、あいつは、自分の舌なら大女将の椀をそのまま出せるって、それだけを何度も確かめてた。金の話は、あいつからは一度も出なかった」
焙じ茶の湯気が、鳴海さんの顔の前で揺れていた。
「葵屋が売られたら、月見椀はなくなる。ミツハの店で、それらしいものは出るかもしれない。でも、大女将の椀じゃなくなる。だから、せめて自分の店で残したかった」
「十年前のことを、聞いてもいいですか」
鳴海さんは、しばらく黙っていた。
「大女将は、味見のあと、必ず久住さんの顔を見ていた」
鳴海さんは湯呑みを置いた。
「最初は、右腕を信頼してるんだと思った。でも、毎日見てると分かる。大女将は、久住さんの顔を見てから、鍋を下ろしていた。久住さんが頷かなければ、もう一匙足す。頷けば、下ろす。自分の舌では決めていなかった」
僕は、閉店後の賄いの席を思い出した。鍋越しに笑っていた鷹野さんの顔を。お前、いつも誰かの顔見てる、と言った声を。
「それで、大女将に言った。もう椀は無理です、って。二番手の若造がね。それでその日のうちに、暖簾をくぐるなと言われた」
鳴海さんは、少し笑った。
「間違ったことを言ったとは思ってない。でも、言い方を間違えた。それに、久住さんが黙って舌を貸してることにも、あのときは気づかなかった」
鳴海さんは、カウンターの上の霧吹きに目をやった。
「十年ぶりに大女将の椀を作れると思って、毎晩、これを吹いてた」
それきり、鳴海さんは何も言わなかった。
湯呑みの焙じ茶は、すっかり冷めていた。僕は頭を下げ、暖簾の下ろされた戸口から、窪地の夜の中へ出た。
◆
翌日の昼、営業の前に、僕は透子さんと久住さんと鷹野さんに、帳場の前に集まってもらった。
「なるみの椀の酒は、二枚目の紙のものです」
僕は言った。
「山廃の熟成酒。鷹野さんの紙です」
鷹野さんは、腕を組んだまま僕を見ていた。表情が、少しも動かなかった。
「何を根拠に」
「香りです。蓋を開けたとき、炊いた米と乳のような、重い香りがしました。吟醸の華やかさではありません。大女将の古酒の香りでもありませんでした。三枚のうち、残るのは二枚目です」
鷹野さんが、笑った。
「香りなんて、誰にでも分かる。違いがあるなら、俺の舌が先に分かったはずだ」
鷹野さんの声は、静かだった。
「俺はあの椀を、目をつぶって二口含んだんだぞ。お前は何をした。蓋を開けて、匂いを嗅いだだけだろう」
「確かめてください」
僕は言った。
「三つの椀を用意します。三通りの酒を、それぞれひと吹きずつ。若女将に並べ替えてもらって、誰がどれを吹いたか分からないようにして。それで、当ててください」
久住さんが、僕を見た。
それから、鷹野さんを見た。
「やれ」
久住さんが言った。
吟醸酒と山廃の熟成酒は、透子さんが神楽坂の酒屋で買ってきた。先代の蔵の古酒は、帳場の奥の水屋箪笥から、僕が新聞紙に包まれた四合瓶を出してきた。三本の瓶が、調理台の上に並んだ。
吸い地は、僕が引いた。秤で塩を量り、醤油を量り、小皿に取って、久住さんに差し出した。久住さんが含み、小さく頷いた。
しんじょを据え、青菜を一筋、柚子を松葉に切って、しんじょの右肩に少しずらして置く。三つの椀に、同じように。
蓋を三枚、裏返して並べ、霧吹きを三本用意した。それぞれに、三本の瓶から酒を詰めた。透子さんが板場の外で、どの霧吹きでどの蓋を吹いたかを紙に書き、それから三つの椀の位置を入れ替えた。
調理台の上に、黒い漆の椀が三つ、並んだ。
最初に、久住さんが前に出た。
一つ目の蓋を取る。椀を両手で持ち上げ、口元に運ぶ。吸い地を含む。二つ目。三つ目。それぞれひと口ずつ。椀を置き、蓋を元に戻した。
「分からん」
久住さんは、そう言った。それから、小さく笑って箸を置いた。
次に、透子さんが前に出た。透子さんは三つの蓋を順に取り、同じように椀を口元に運んで含んだ。しばらく考えていたが、首を振った。
「同じにしか思えない」
最後に、鷹野さんが前に出た。
鷹野さんは一つ目の蓋を取り、すぐに椀を持ち上げた。目を閉じる。吸い地を含む。喉が動く。目を閉じたまま、もうひと口。椀を置き、二つ目。三つ目。それぞれ二口ずつ、丁寧に。
三つの椀を置き終えると、鷹野さんは目を開けた。
「三つとも、同じだ」
鷹野さんは、静かに言った。
「塩も、醤油も、昆布も、全部同じだ。酒の違いなんか、どこにもない」
誰も当てられなかった。
透子さんが、椀を新しいものに取り替えた。三人が口をつけた椀は脇へ下げられ、同じ手順で同じように作った三つが、もう一度並べられた。透子さんは紙を見ながら、蓋を吹き、椀の位置を入れ替えた。
僕は、椀の前に立った。
一つ目の蓋に、指をかけた。
息を止めた。
蓋を、持ち上げた。
華やかな香りが、湯気といっしょに弾けた。熟れた梨のような、白い花のような、すっと軽く、高い香り。柚子の鋭さと手を取り合うように、まっすぐ鼻の奥へ上っていく。重さは、どこにもない。
「吟醸酒です」
僕は蓋を戻した。透子さんが、手許の紙を見て、小さく息を呑んだ。
二つ目の蓋に、指をかけた。
持ち上げる。
重い香りが、ゆっくりと立ち上がった。柚子の下に沈んでいく、熟れた、まろやかな重さ。炊いた米のような。いや、もっと深いところで、何かが焦げているような。
三秒で、溶けた。
僕は蓋を戻した。
三つ目の蓋に、指をかけた。
持ち上げる。
重い香りが、ゆっくりと立ち上がった。柚子の下に沈んでいく、熟れた、まろやかな重さ。
三秒で、溶けた。
どちらも、重かった。どちらも、熟れていた。
僕は三つ目の蓋を手にしたまま、動けなかった。なるみのカウンターで嗅いだ香りは、炊いた米と乳だった。葵屋の毎晩の香りは、焦げた蜜だった。分かっているはずだった。けれど、今、二つ目と三つ目の香りは、どちらも米のようで、どちらも蜜のようだった。湯気の中で、輪郭がにじんでいた。
手のひらが、汗で湿っていた。
鷹野さんが、腕を組んだまま僕を見ていた。久住さんは、何も言わなかった。
「湊くん」
透子さんの声がした。
「飲まないの」
僕は答えなかった。
祖父の茶畑の、ある朝を思い出していた。
小学校に上がる前の、春の朝だった。祖父が紙袋を二つ、僕の前に置いた。目をつぶれ、と言った。一つ目の袋の口が、鼻先で開いた。新茶の、青く鋭い香りがした。二つ目の袋の口が開いた。同じ新茶の香りがした。
どっちが新茶だ、と祖父は言った。
僕は分からなかった。二つとも青かった。二つとも鋭かった。祖父は笑って、もう一度袋を開けた。
もう一回、嗅いでみろ。青いのの、うしろだ。
二つ目の袋の、青い香りのうしろに、ほんのかすかに、少し焦げたような、甘い気配が混じっていた。去年の茶だった。祖父が、新茶の香りを少しだけ移しておいたものだった。
「新しいのは前に出たがる。古いのは、うしろで黙ってる」
祖父はそう言って、笑った。
僕は、二つ目の椀の蓋に、もう一度指をかけた。
今度は、柚子の鋭さの、そのうしろを嗅いだ。米の重さの、うしろを。
蓋を持ち上げた。
柚子が来た。重さが来た。そのうしろに、何もなかった。米と、乳と、ほのかな酸。重さは、そこで終わっていた。
三つ目の蓋に、指をかけた。
持ち上げた。
柚子が来た。重さが来た。そのうしろに、焦げた蜜があった。古い樽の、乾いた干し柿の、醤油の焦げの気配が、重さの影に隠れるようにして、ほんのわずかに、確かにあった。
三秒で、溶けた。
僕は蓋を戻した。
「もう分かりました」
透子さんに言った。
「三つ目が、先代の蔵の古酒です。二つ目が、山廃の熟成酒。なるみの椀と、同じ香りです」
透子さんは、手許の紙を見た。
しばらく、何も言わなかった。それから、紙を調理台の上に置いた。
正しかった。
板場が、静まり返っていた。換気扇の回る音さえ、遠く聞こえた。
鷹野さんは、腕を組んだまま動かなかった。
僕は三つの椀の前から一歩下がり、帳場の前に並んだ三人を見た。透子さんと、久住さんと、鷹野さん。
「僕は、塩梅が分かりません」
声が、思ったよりも静かに出た。
「二年前から。事故で頭を打って、それから、塩も甘さも旨味も、分からなくなりました。でも香りは分かります。ただ、それが濃いのか薄いのか、足りているのか過ぎているのかが、分からないんです」
誰も、何も言わなかった。
「だから、香りしか拾えないんです」
板場が、しんとしていた。
僕は、自分がこれで板場を去ることになるのだと思った。透子さんの顔を見られなかった。久住さんの顔も。足元の、濡れた三和土の黒さだけを見ていた。
そのとき、肩が軽くなっているのに気づいた。
何かが、両肩から滑り落ちたようだった。二年前の冬から、ずっと背負っていた荷が、どこかへ行っていた。僕は息を吐いた。吐いて、吐いて、最後まで吐いた。肺の底の、ずっと使っていなかった場所まで、空気が出ていった。
二年ぶりに、息を最後まで吐けた気がした。
鷹野さんが、腕をほどいた。
両手が、だらりと体の脇に下がった。鷹野さんは三つの椀を見ていた。僕が蓋を戻した三つ目の椀を、長いこと見ていた。
「十年待っても」
鷹野さんの声が、かすれていた。
「椀を触らせてもらえなかった」
鷹野さんは、調理台の縁に手をついた。指の関節が白くなっていた。
「俺の舌じゃ、届かなかったのか」
誰も、答えなかった。
僕も、答えなかった。答えを、僕は持っていなかった。
鷹野さんは調理台の縁から手を離し、ゆっくりと勝手口のほうへ歩いていった。戸を開け、外へ出た。戸が閉まる音はしなかった。開いたままの戸の隙間から、路地の冷たい空気が流れこんできた。それに混ざって、しばらくしてから、煙草の煙の匂いがした。




