第七章 いい匂いだね
鷹野さんは、その日の夜の営業に戻ってこなかった。
翌朝、五時半に勝手口の鍵を回すと、鍵はかかっていた。土間の匂いは、夜の冷えた匂いだった。濡れた石と、古い檜と、洗剤のかすかな柑橘。いつもと同じ朝の匂いの中に、ひとつだけ、違う匂いが混じっていた。煙草の、冷えて湿った匂いだった。
板場の灯りをつけると、調理台の真ん中に、和紙が一枚置かれていた。
四つ折りの折り目が、きちんと開かれていた。大女将の細い筆の字が、上から下まで隙間なく並んでいる。昆布の目方、水の量、火を入れる時刻、引き上げる時刻。塩は匙で何杯、醤油は何滴。
最後から二行目に、鉛筆で一本の線が引かれていた。
山廃の熟成酒、という五文字の上を、まっすぐに。定規を当てたように、少しもぶれていなかった。線の下の墨の字は、消されずにそのまま透けて見えた。
紙の上には、ほかに何も書かれていなかった。
鷹野さんのロッカーは、空になっていた。白衣も、包丁も、なくなっていた。扉の内側に、煙草の箱が一つだけ、封を切らないまま置いてあった。
僕は紙を調理台の上に置いたまま、寸胴に井戸水を張った。前の晩から浸けておいた昆布を、火にかけた。袖口を三回折り返した。
七時前に久住さんが来て、紙を見た。
久住さんは長いこと、その一本の線を見ていた。それから紙を四つ折りに畳み、割烹着のポケットに入れた。紐を背中で結んだ。端を内側に押しこむ指が、一度だけ止まった。
昼前に、透子さんが板場の暖簾の前に立った。
「湊くん」
僕は手を止め、暖簾の前へ行った。透子さんは暖簾をくぐらなかった。紺のスーツの襟を、指で一度だけ直した。
「昨日のこと、ずっと考えてた」
透子さんは、板場の奥の寸胴を見ていた。湯気が、ゆっくりと上っていた。
「味の分からない板前を、置いておけると思う?」
僕は、答えられなかった。
透子さんは、僕の答えを待たなかった。
「今夜、久住さんと一緒に出かけて。行けば、分かるから」
それだけ言って、帳場へ戻っていった。
夜の営業が終わると、久住さんが店の裏に車を回してきた。古い白いライトバンで、仕入れのときにしか使わないものだった。助手席に乗ると、車の中は鰹節と段ボールの匂いがした。
久住さんは灰色のジャケットを羽織り、黙って車を出した。神楽坂を下り、外堀通りに出て、市ヶ谷のほうへ向かった。窓の外を、夜の堀の水が黒く流れていた。
赤信号で止まったとき、久住さんがハンドルに両手を載せたまま言った。
「大女将も、ずっと鼻で作ってた」
信号の赤が、久住さんの横顔を照らしていた。
「舌は、俺が貸した」
信号が青に変わった。久住さんは前を向いたまま、車を出した。
僕は、何も言えなかった。
大女将も。
久住さんは、そう言った。大女将も、と。
僕は膝の上で、両手を握った。毎朝、小皿を差し出していた。久住さんは毎朝、黙って含み、眉を動かすか、動かさないかで答えた。何も聞かなかった。二年間、一度も。
久住さんは、知っていたのだ。
窓の外に、病院の白い建物が近づいてきた。
夜間の通用口から入り、エレベーターで六階へ上がった。扉が開くと、消毒液の匂いが廊下いっぱいに満ちていた。鼻の奥を薄く焼くような、乾いた匂い。その下に、配膳車の残した粥の湯気と、どこかの病室の花の匂いが、かすかに沈んでいた。久住さんは匂いなど何もないような顔で、廊下の突き当たりへ歩いていった。
病室は、六階の個室だった。
大女将はベッドの上で、上半身を起こしていた。藤色の江戸小紋ではなく、病院の薄い水色の寝間着を着ていた。髪はいつものようにきっちりと結っていなかったが、櫛は通してあった。顔には、何も塗っていなかった。白粉を落とした頬に、細かな染みがいくつも浮いていた。六年のあいだ、僕が一度も見たことのない大女将の顔だった。
ベッドの脇の椅子に、透子さんが座っていた。紺のスーツの上着を膝に畳んで載せ、白いシャツの袖を肘まで折り返していた。床頭台の上に、着替えを入れた風呂敷包みが一つ置いてあった。結び目の隙間から、大女将の冬物の羽織の、鼠色の裏地が覗いていた。
「来たね」
大女将が言った。
声は、少しかすれていた。けれど、声の端は、いつものように少しだけ上がっていた。
久住さんは病室の入口の壁にもたれ、腕を組んだ。僕は、ベッドの足元に立った。
「座りな」
透子さんが立ち上がり、僕に椅子を譲った。透子さんは窓際に立ち、外の夜景に背を向けて、こちらを見ていた。
「なるみの椀、当てたんだってね」
大女将が言った。
「久住から聞いたよ」
僕は頷いた。
「山廃だったかい」
「はい」
大女将は、目を閉じた。しばらく、そのまま黙っていた。
「あの晩ね、胸が苦しくなって、久住を呼んだんだよ。夜中に透子に車を出させて、ここへ来た。前からの持病さ」
大女将は、窓際の透子さんに目をやった。
「騒ぐなって言ったのは、あたしだよ。戸倉さんの耳に入ったら、話が早く進んじまう。手紙は、車に乗る前に帳場で書いた」
透子さんは、窓の外を見たまま、小さく頷いた。
「修は、どうしてる」
「出ていきました。紙を置いて」
大女将は目を開けた。
「線を引いてありました。酒の行に、一本だけ」
大女将は、小さく息をついた。それから、枕元の小さな棚に目をやった。棚の上には、何も置かれていなかった。花も、果物も、香りのするものは、何一つ。
「あたしゃね」
大女将は、僕を見た。
「十年前から、塩梅が分からないんだよ」
病室が、しんとした。
透子さんが、窓際で身じろぎした。
「病気をしてね。年もあった。ある朝、だしを引いて、小皿に取って、含んだら、何もなかった。香りはある。昆布も鰹も、ちゃんと鼻に来る。でも、それが濃いのか薄いのか、分からない」
大女将は、膝の上で手を重ねた。
「匙の数を声に出して数えるのは、舌の代わりさ。数えてれば、手が覚えてる数を間違えない。味見のとき久住を隣に置いたのは、久住の顔を見るためだよ。久住が頷けば、鍋を下ろす。頷かなきゃ、もう一匙」
大女将は、入口の壁にもたれている久住さんを見た。久住さんは、腕を組んだまま、リノリウムの床を見ていた。
「この人はね、十年、一回も何も聞かなかった。ただ毎晩、隣に立ってた」
大女将は、僕に目を戻した。
「近ごろは、鼻まで遠くなってきてね。酒の違いが、もう分からない。吟醸と古酒の区別も、怪しいもんだ」
大女将は、少し笑った。
「あんたが味見のたびに久住の顔を見るの、すぐ分かったよ。あたしも同じことしてたからね」
僕は、膝の上の手を握りしめた。
「二年前の冬だったろう。あんたが頭を打って帰ってきて、しばらくして、急に秤を使いはじめた。それから、味見のあとで久住の顔を見るようになった。毎朝、じっとね」
大女将は、静かに言った。
「それで、春に紙を渡した」
僕は、顔を上げた。
二年前の春。帳場に呼ばれて、和紙を手渡された。誰にも見せるな、とだけ言われた。
「三通りに書き分けたのは、そのあとさ。戸倉って人が、うちの子に声をかけてるって、耳に入ってね。修と久住に渡したのは、去年の暮れだよ」
大女将は、窓の外に目をやった。
「疑ったわけじゃない。誰かが流すなら、せめて誰が流したか分かるようにしておきたかった。分かれば、取り戻しに行ける。分からなきゃ、みんなを疑って、みんなを失う」
大女将は、しばらく黙った。
「でもね、答え合わせは、もうあたしの鼻じゃできない。分かってたよ、書いたときから」
大女将は、僕を見た。
「でもあんたなら分かると思った」
窓際で、透子さんが顔を伏せた。
「本物は、あんたに渡した一枚さ。先代の蔵の古酒。久住のは吟醸、修のは山廃」
大女将は、膝の上の手をほどいた。
「修の舌は、店の宝だよ。あたしが三十年かかって覚えた吸い地を、十年で全部覚えた。〇・一の違いだって分かる。あの子は、うちで一番の舌を持ってる」
大女将の声が、わずかに低くなった。
「でもね、月見椀にだけは、三秒を待てる者が要った。修は、蓋を開けたら、すぐ口に運ぶ。舌がいいから、舌で確かめたくなる。そのあいだに、三秒は過ぎちまう。あの子に、それを言えなかった。言ったら、あたしの舌のことも言わなきゃならなかったから」
大女将は、目を閉じた。
「取り戻しに行かなきゃね。退院したら、あたしが行くよ」
病室が、しばらく静かだった。廊下を、看護師の柔らかい靴音が通り過ぎていった。
透子さんが、窓際から一歩、前に出た。
「ミツハとの話は、今日、断りました」
大女将が、目を開けた。
「戸倉さんには、電話で。もう提示額も聞かないって言った」
透子さんは、膝の上の上着ではなく、自分の短い爪を見下ろしていた。
「お母さんの椀で、借金は返せない。その考えは、今も変わらない。でも、お母さんが十年、久住さんの舌を借りて椀を守ってきたのなら、私はその椀を数字で守る。借金は、私が返す」
それから、透子さんは僕を見た。
「湊くん。昼の答え、私が出すね」
僕は、椅子の上で背筋を伸ばした。
「塩梅は久住さんに借りなさい」
透子さんは言った。
「うちは九十年、そうやってきたんだから」
入口の壁にもたれていた久住さんが、腕をほどいた。
「俺もいつまでも貸せねえぞ」
久住さんは、ぼそりと言った。
「そのうち若いのを育てろ。お前の分も、俺の分も、貸せるやつを」
大女将が、声を立てずに笑った。
十日後、大女将は退院した。
その日の朝、健太が初めて一番だしを引いた。昆布を引き上げる手が遅れ、削り節を落とす手が早すぎた。漉したものを小皿に取り、緊張で青くなった顔で、久住さんに差し出した。
久住さんは含み、黙って首を横に振った。
健太は唇を噛み、寸胴を洗いに流しへ行った。僕はその背中に、明日も五時半に来い、とだけ言った。健太は振り向かずに、はい、と答えた。
その夜、大女将は板場には下りてこなかった。藤色の江戸小紋に生成りの帯を締め、板場の前の三席のカウンターの、いちばん端に座った。客として。足袋の白が、いつものように眩しいほど白かった。顔には、香りのない白粉が、薄く載っていた。
八寸が出たと、仲居から声がかかった。
僕は鍋の前に立った。一番だしを小鍋に取る。秤を出し、乾いた布で皿を拭き、ゼロを確かめる。量っておいた塩を、匙で落とす。淡口醤油を、量った分だけ垂らす。
吸い地を小皿に取り、隣の久住さんに差し出した。
久住さんが含む。小さく頷く。
僕は鍋を火から下ろした。
椀に湯を回して温め、捨て、拭う。しんじょを据え、青菜を一筋。吸い地を縁から張る。柚子の皮を松葉に切り、しんじょの右肩に、ほんの少しずらして置く。
蓋を裏返して左手に持ち、霧吹きを構えた。色の褪せた紫の組紐が、指に触れた。
手は、震えていなかった。
ひと吹き。先代の蔵の古酒の、焦げた蜜の霧が、漆の内側に吸いついた。
蓋をかぶせる。こつ、と縁が触れる音。
僕は椀を盆に載せ、自分で板場を出て、カウンターの端へ運んだ。大女将の前に、そっと置いた。
大女将は膝の上に手を重ねたまま、しばらく椀を眺めていた。
それから、蓋に指をかけた。指の先が、かすかに震えていた。
ゆっくりと、持ち上げた。
湯気が上がった。
大女将は、湯気の中に顔を寄せた。皺の深い瞼を閉じ、細く長く、息を吸った。
吸いこむ息は細く、長かった。その息が胸の底へ届くまでのあいだに、湯気は椀の縁から溢れ、カウンターの上の空気に溶けていった。
大女将は瞼を開けた。
「いい匂いだね」
声の端が、少しだけ上がっていた。
僕はその顔を見た。もう、自分の舌の代わりではなく、椀が届いたことを確かめるために。
(了)




