第五章 三通りの紙
大女将がいなくなってから、月見椀は毎晩僕が仕上げた。霧吹きの中身は、二日目の晩に底が見えはじめた。三日目の昼、僕は透子さんに断って帳場の奥の小部屋に入った。大女将が営業前に一人で籠もっていた部屋だった。
三畳ほどの板の間に、小さな水屋箪笥が一つと、座布団が一枚あるだけだった。箪笥の下の段を開けると、新聞紙に包まれた四合瓶が一本、立ててしまってあった。ラベルは剥がされていた。栓を抜いて鼻を近づけると、焦げた蜜の香りが、霧吹きよりもずっと濃く、重く立ち上がった。
僕は霧吹きに酒を移し、瓶を新聞紙で包み直して、元の場所に戻した。誰にも、そのことは言わなかった。
五日目の昼、賄いの前に透子さんが板場に下りてきた。
板場に透子さんが入ることは、めったにない。帳場から下りるときも、板場の入口の暖簾の手前で立ち止まって話す。料理人ではない者が板場に足を踏み入れない、というのが、透子さんが自分に課している決まりだった。その透子さんが、暖簾をくぐって、まっすぐ鷹野さんの前に立った。
「鷹野くん。昨日の午後、どこにいたの」
鷹野さんは包丁を置いた。
「休みでしたから、家に」
「飯田橋のホテルのラウンジ」
透子さんは、鷹野さんから目を離さなかった。
「私、昨日あそこで銀行の人と会ってたの。奥の席から、あなたが戸倉さんと向かい合ってるのが見えた」
板場が静まり返った。健太が持っていた鍋の蓋が、流しの縁に当たって鳴った。
鷹野さんは、しばらく黙っていた。それから、短く笑った。
「見てたんなら、声かけてくださいよ」
「何の話をしてたの」
「引き抜きです」
鷹野さんは腕を組んだ。
「ミツハが葵屋を買ったら、新しく出す和食の店の料理長にならないかって。その前に、うちに移らないかって。だから、断りに行っただけです。電話で断ったら、しつこくまたかけてくる。顔を見て断れば、一回で済む」
「それだけ?」
「それだけです」
鷹野さんは、透子さんから視線を外し、板場をぐるりと見回した。その目が、僕のところで止まった。
「それより若女将。俺を疑う前に、考えることがあるでしょう」
「何を」
「大女将が後継に指名したのは、誰です」
鷹野さんは顎で僕を指した。
「湊でしょう。置き手紙にも、三番目の皿は湊にって書いてあった。大女将がいなくなって、一番得をしたのは誰だ」
誰も、何も言わなかった。
「なるみの記事が出た翌朝に、大女将が消えた。で、その日から湊が椀を作ってる。順番が、ちょっとできすぎてると思わないか」
鷹野さんの声は大きくなかった。冗談めかしてさえいた。それでも、板場の全員がそれを聞いていた。
僕は、答えられなかった。何を言っても、言い訳に聞こえる気がした。手の中で、布巾が濡れたまま固く絞られていた。
「やめろ」
久住さんだった。
久住さんは、まな板の前から動かずに言った。
「紙を出せ」
「紙?」
「月見椀の紙だ。持ってる者は、今ここで出せ」
久住さんは割烹着のポケットから、四つ折りの和紙を一枚取り出し、調理台の上に置いた。
「俺のだ」
鷹野さんが、目を見開いた。それから、しばらく迷うように久住さんの顔を見ていたが、やがて自分のロッカーへ行き、財布の中から同じように四つ折りにした和紙を取ってきた。調理台の上の、久住さんの紙の隣に並べた。
僕は、透子さんに断って一度アパートに戻った。江戸川橋から店まで、往復で四十分かかった。戻ってくると、板場の調理台の上で、二枚の紙がそのままの位置に置かれていた。誰も触れていないようだった。
僕は文箱から持ってきた紙を、三枚目として並べた。
三人で、三枚を開いた。
大女将の細い筆の字が、三枚とも上から下まで隙間なく並んでいた。昆布の目方、水の量、火を入れる時刻、引き上げる時刻。塩は匙で何杯、醤油は何滴。しんじょのすり身の配合、蒸す時間、柚子の切り方。
久住さんが指で一行ずつ追い、鷹野さんがそれを目で追った。透子さんは少し離れたところから、腕を組んで見ていた。
「同じだ」
鷹野さんが言った。
「一字一句、同じ」
「いや」
久住さんの指が、最後から二行目で止まった。
蓋の裏にひと吹きする酒の名前が、書かれている行だった。
一枚目、久住さんの紙には、吟醸酒、とあった。
二枚目、鷹野さんの紙には、山廃の熟成酒、とあった。
三枚目、僕の紙には、先代の蔵の古酒、とあった。
板場の誰も、しばらく口をきかなかった。
換気扇の回る音だけがしていた。
「なんだ、これ」
鷹野さんが、かすれた声で言った。
「大女将が、わざと変えたんだ」
透子さんが、腕をほどいた。
「紙が流れたときに、誰の紙が流れたか分かるように」
久住さんは何も言わなかった。黙って、三枚の紙の最後から二行目を、一枚ずつ指でなぞっていた。
「じゃあ」と、若い板前が言った。「なるみの椀に、どの酒が使われてるか分かれば」
「流したやつが分かる」
健太が、息を呑むように言った。
鷹野さんが、ゆっくりと首を振った。
「無理だ」
「なんでですか」
「酒はひと吹きだぞ。数滴だ。吸い地の味は変わらない」
鷹野さんは三枚の紙から目を上げ、板場の全員を見回した。
「俺はなるみの椀を食った。目をつぶって、二口含んだ。味は寸分違わなかった。塩も、醤油も、昆布も。酒の違いなんか、どこにもなかった」
鷹野さんの声が、少しだけ強くなった。
「俺の舌で分からないものが、誰に分かる」
誰も、答えなかった。
鷹野さんの舌が店で一番鋭いことは、板場の全員が知っていた。久住さんでさえ、それを認めていた。その鷹野さんが分からないと言うのなら、誰にも分からない。板場の誰もが、そういう顔をしていた。
僕は、あの夜のなるみの椀を思い出そうとした。
黒い漆の椀。縁の細い金の線。蓋に指をかけた感触。蓋を持ち上げたときの、わずかな抵抗。湯気。
そこで記憶は途切れていた。
湯気の向こうにあったはずの香りが、どうしても戻ってこなかった。代わりに浮かんでくるのは、暖簾の奥から出てきた男の目だった。僕をまっすぐに、長く見ていた目。あの目を見返したまま、僕は蓋を開けていた。蓋を開けたあと、何がそこにあったのか。柚子はあったのか。酒の気配はあったのか。
何も、思い出せなかった。
僕は三枚目の紙を、四つ折りに畳んだ。指先が、和紙の毛羽立ちに引っかかった。
久住さんが、自分の紙を畳んでポケットにしまった。鷹野さんも、少し遅れて自分の紙を畳んだ。
「久住さん」
僕は言った。
「大女将は、どこにいるんですか」
久住さんは割烹着の紐を一度ほどいて、背中で結び直した。いつもより、結び目が固かった。
「仕込みに戻れ」
それだけだった。
昼の仕込みが一段落すると、透子さんに帳場へ呼ばれた。
帳場の机には、ミツハの封筒が置いてあった。透子さんはそれを脇へ寄せ、僕を向かいの座布団に座らせた。紺のスーツの上着は椅子の背に掛けてあり、白いシャツの袖を肘のところまで二回折り返していた。
「さっきのこと、気にしないで」
透子さんは、机の上で指を組んだ。
「鷹野くんは、追い詰められると相手に噛みつく。昔からそう。悪い子じゃないのよ」
僕は頷いた。
「でも、一つだけ聞かせて。湊くんは、紙を誰かに見せたことがある?」
「ありません」
「一度も?」
「一度も」
透子さんは僕の顔をしばらく見ていた。それから、小さく息をついて、組んでいた指をほどいた。
「私ね、二十のときに板場に立ちたいって母に言ったの」
透子さんは、自分の手を見下ろしていた。短く切りそろえた、色のない爪だった。
「母は、だめだとは言わなかった。ただ、毎朝一番だしを引かせて、それを小皿で久住さんに出させた。久住さんは毎朝、黙って首を横に振った。三か月、一度も縦に振らなかった」
透子さんは笑った。
「それで、帳場に来たの。数字なら、首を横に振られても、どこが違うか自分で分かるから」
透子さんは封筒を引き寄せ、また脇へ押しやった。
「湊くんの椀、お客様の評判はいいのよ。仲居さんたちが毎晩教えてくれる。母のときと、ほとんど変わらないって」
僕は膝の上の手を見ていた。
「だから、続けて。母が戻るまで」
透子さんはそう言って、帳簿を開いた。電卓の音が始まり、僕は頭を下げて帳場を出た。
その日の賄いは、親子丼だった。
作ったのは健太で、このところ毎日のように練習させられていた。溶き卵を回し入れる手つきが、十日前よりはいくらか慣れていた。蓋をして、火を止めて、蒸らす。丼が並ぶと、厨房の隅の長机に板前たちが肩を寄せて座った。
さっきまでの板場の空気が、まだ長机の上に残っていた。誰も、隣の顔を見ようとしなかった。
鷹野さんが一口かきこんで、箸を止めた。
「今日は甘めだな」
健太が首をすくめる。隣の若い板前が、汁を啜って言った。
「いや、出汁が勝ってるんですよ。みりんは控えめです」
「お前ら、どっちの味方なんだよ」
健太が泣き言を言ったが、今日は誰も笑わなかった。
僕は丼を持ち上げた。熱が掌を通って、指の付け根まで届く。卵は半熟のまま鶏肉に絡み、箸で持ち上げると、ゆるく揺れながらまとまっていた。鶏の皮の脂の匂いと、三つ葉の青い香りが、湯気の中で並んでいた。
「卵がふわっとしてますね」
健太が顔を上げて、少しだけ笑った。
鷹野さんは、僕を見なかった。黙って丼をかきこみ、最後の一粒まで箸でさらって、流しへ立っていった。
僕は、もう一口食べた。ご飯の熱さが、舌の上で長く残った。
午後の仕込みのあいだ、仲居たちが座敷の支度をしながら、昨夜の客の言葉を板場へ運んできた。
「梅の間のお客様が、今週の椀は塩が少し尖ってるって」
「でも離れの先生は、先週より柔らかくなったって」
「桐の間のご夫婦は、何も。ただ、汁まで全部」
鷹野さんは聞こえないふりをして、鱧の骨切りをしていた。一寸に二十四。包丁が皮一枚を残して身を断つ、しゃり、しゃり、という細かな音が、仲居たちの声の下でずっと続いていた。
久住さんが、仲居の言葉にだけ、小さく頷いていた。
夜の営業の途中、ごみを出しに勝手口から外へ出ると、路地の暗がりに久住さんが立っていた。灰色のジャケットを白衣の上から羽織り、携帯電話を耳に当てていた。
「ああ。明日は昼に行く。着替えは若女将が持っていった」
久住さんは僕に気づくと、電話を耳に当てたまま背を向けた。
「いや、何も言ってない。言うなと言われてるからな」
僕はごみ袋を置き、黙って勝手口の中へ戻った。戸を閉める直前、路地の向こうで、久住さんが短く笑う声が聞こえた。何年も聞いたことのない、柔らかい笑い方だった。
夜の営業が終わり、最後の椀を下げたあとで、僕は一人で板場に残った。
盆の上に、黒い椀の蓋が一つ伏せてあった。僕はそれを取り上げ、裏返した。漆の内側に、霧吹きの酒が乾いた跡が、目に見えないほど薄く残っている。鼻を近づけると、焦げた蜜の香りが、もうほとんど消えかけながら、まだそこにあった。
三秒。
大女将の声が、耳の奥で聞こえた気がした。
僕は蓋を盆に戻した。
あの夜、僕はなるみで蓋を開けた。でも、何も受け取らなかった。受け取る前に、目を逸らしていた。
もう一度行けば、分かるかもしれない。
鷹野さんの舌でも分からなかったものが、僕に分かる保証はない。行っても、何も分からないかもしれない。それでも、あの湯気の向こうにあったものを、確かめないまま椀を作り続けることは、もうできない気がした。
板場の灯りを消すとき、換気扇の下に、鷹野さんの煙草の匂いがまだ薄く残っていた。
坂を下りる途中、もう閉まっている茶舗の前を通った。昼間は店先で焙じ機を回している店で、シャッターが下りたあとも、焙じた葉の香りが石畳の上に溜まっている。僕は足を止め、その香りの中に立った。
焙じたての香りは、表が香ばしく、裏が少し焦げている。ひと晩たつと、焦げのほうが先に抜けて、表の香ばしさだけが薄く残る。祖父はそれを、香りが痩せる、と言った。痩せた香りからでも、もとの葉は当てられる。最初の一息を、ぐずぐずせずに吸えば。
僕は一度だけ深く、胸の底まで息を吸い、それからまた、ゆっくりと坂を下りはじめた。
次の休みは、三日後だった。僕は荒木町のなるみに電話をかけ、自分の名前で、カウンター一人分の予約を入れた。




