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【割烹板前短編小説】三番目の皿  作者: 霧崎薫


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第四章 空いた帳場

 その朝、いつものように五時半に勝手口の鍵を回すと、鍵はもう開いていた。


 土間の匂いが違った。夜の冷えではなく、人が少し前までそこにいた、ぬるい空気の匂いがした。板場の灯りは消えていたが、帳場の奥の小部屋の襖が、半分開いたままになっていた。


 大女将は、葵屋の二階に住んでいる。朝はいつも七時に下りてきて、帳場で茶を一杯飲む。五時半に襖が開いていたことは、六年間で一度もなかった。


 帳場の机の上に、白い封筒が一つ置いてあった。宛名はない。封もされていなかった。


 僕は封筒には触れずに、二階へ続く階段の下から声をかけた。返事はなかった。もう一度呼んだ。古い家の柱が、どこかで小さく鳴っただけだった。


 七時前に久住さんが来た。僕が帳場を指さすと、久住さんは割烹着の紐を結ぶ手を止め、黙って帳場へ入っていった。封筒を開け、中の便箋を読み、また封筒に戻した。それから階段を上がっていき、しばらくして下りてきた。


「大女将は、留守だ」


 それだけ言って、割烹着の紐を背中で結んだ。片結びにして、端を内側に押しこむ。いつもと同じ手つきだった。


 八時過ぎに透子さんが来て、封筒の中身を読んだ。それから板場の全員が、帳場の前に集められた。昨日と同じ場所に、昨日と同じ顔ぶれで並んだ。


 透子さんが便箋を読み上げた。


「しばらく留守にします。三番目の皿は湊に」


 便箋は一枚きりで、それだけしか書かれていなかった。大女将の細い筆の字だった。


 誰も、僕を見なかった。誰もが、見ないようにしていた。鷹野さんが、隣で小さく息を吐く音だけが聞こえた。


「警察に」


 若い板前が言いかけた。


「届けません」


 透子さんが遮った。


「母は自分の足で出ていったの。置き手紙もある。だから、探す必要はありません」


「でも、八十一ですよ。どこかで倒れてたら」


「届けません」


 透子さんの声は、最後まで少しも揺れなかった。紺のスーツの袖口から覗く手首の時計を、一度だけ見た。


「昨日のなるみの件と、母の留守が重なれば、どういう噂になるか分かるでしょう。葵屋の大女将が、レシピを盗まれて失踪した。そんな記事が出たら、この店はおしまいです」


 透子さんは便箋を封筒に戻し、スーツの内ポケットにしまった。


「それに、ミツハの戸倉さんから、昨日電話がありました」


 板場がざわついた。


「なるみの記事を読んだそうです。看板の椀がよそで同じものが食べられるなら、葵屋の暖簾の値打ちは下がる。だから、提示額を見直したいと」


「見直すって」


「下げる、ということ」


 透子さんは淡々と言った。


「交渉は続けます。この状況で母を探して騒げば、額はもっと下がる。みんなの退職金も、そのぶん減る。だから、母のことはしばらく伏せておいてください。お客様にも、業者さんにも」


 久住さんは、ずっと黙っていた。透子さんが話しているあいだ、一度も口を挟まず、腕を組んで帳場の柱にもたれていた。透子さんが話し終えて帳場へ戻るとき、二人の目が一瞬だけ合ったのを、僕は見た。


 透子さんがいなくなると、鷹野さんが久住さんに詰め寄った。


「久住さん、何か知ってるんでしょう」


「知らん」


「二階に上がってたじゃないですか」


「部屋を見ただけだ。片づいてた」


 久住さんはそれ以上答えず、昆布の寸胴を覗きこんだ。


「今日の椀は、湊がやれ」


 しんじょの仕込みは、午前のうちに始めなければ間に合わない。


 芝海老の殻を剥き、背わたを竹串で抜く。剥いた身を塩水で洗うと、水がうっすらと灰色に濁り、海老の生臭さが一緒に抜けていく。三度水を替え、濁らなくなったところで布巾に取って水気を押さえる。そこから先は、包丁の背で叩く。刃で切ると身の繊維が断たれて、蒸したときにぼそつく。背で叩けば、繊維はほぐれながらつながったまま残る。


 叩いた身を擂り鉢に移し、擂り粉木で当たる。鉢の溝に身がなじんで、ねっとりと艶が出るまで。そこへ卵白を少しずつ落とし、すりおろした大和芋を加える。粘りが増すごとに、擂り粉木が重くなる。


「代わるか」


 鷹野さんが横に立っていた。


「大丈夫です」


「腕、もう張ってんだろ。しんじょは当たり方で口当たりが変わる。疲れて手がぶれると、ムラが出る」


 鷹野さんは僕の手から擂り粉木を取り、鉢の縁を左手で押さえた。擂り粉木の先が、鉢の底で小さな円を描きはじめる。力を入れているようには見えないのに、身がみるみるうちに鉢の溝から離れ、ひとつのなめらかな塊にまとまっていく。


「大女将のしんじょは、もうちょい柔らかいぞ。卵白をあと少し」


 鷹野さんは僕が量っておいた卵白の残りを、目分量で鉢に落とした。それから擂り粉木の先についた身を指で掬い、小さく舐めた。


「塩、あとひとつまみ。いや、半分」


 僕は秤を出しかけて、手を止めた。鷹野さんが、もう指で塩をつまんで鉢の上に振っていた。


「秤なんか待ってたら日が暮れる。ほら、これでいい」


 鷹野さんはもう一度身を舐め、満足そうに頷いた。


「これで大女将のと同じだ。しんじょはな、蒸すと塩が引っこむ。生で舐めて、ちょっと強いくらいでちょうどいい」


 僕は帳面を開き、鷹野さんが足した卵白と塩の分を、おおよその目方で書き足した。鷹野さんがそれを覗きこんで、呆れたように笑った。


「お前、本当にそういうとこ律儀だよな」


 鷹野さんは擂り粉木を鉢に立てかけ、手を洗いに流しへ行った。その背中に、僕は頭を下げた。鷹野さんは振り向かずに、濡れた手をひらひらと振った。


 当たり終えた身を、濡らした匙で丸く抜く。掌の上で転がし、形を整え、蒸し器に並べる。強火で蒸すと表面に鬆が立ち、月が痘痕になる。蒸し器の蓋を少しずらし、湯気を逃がしながら、弱めの火で十分。蒸し上がったしんじょは白く、ふっくらとして、うっすらと海老の紅が透けていた。


 久住さんが一つを箸で割り、断面を見た。湯気が割れ目から立ち上がる。


 久住さんは何も言わず、割ったしんじょを口に入れた。噛みながら、僕の顔を見ずに頷いた。


 その日の昼過ぎ、透子さんに呼ばれて帳場に行った。


 透子さんは机の引き出しを開け、中から小さな硝子の霧吹きを取り出した。首に、色の褪せた紫の組紐が巻いてある。


「封筒と一緒に、ここに入ってた。母が置いていったんでしょう」


 透子さんはそれを、僕の掌に載せた。硝子は冷たく、中で透明な液体が小さく揺れた。


「中身が何なのか、私も知らない。母は誰にも教えなかったから」


 透子さんは机の上で、指を組んだ。短く切りそろえた爪が、白いシャツの袖口に並んでいた。


「湊くん。やれる?」


「やります」


 僕は、それしか言えなかった。


 板場に戻り、霧吹きの首をそっと回して、口を鼻先に近づけた。


 先代の蔵の、焦げた蜜のような香りがした。


 古い木の樽と、乾いた干し柿と、ほんの少しの醤油の焦げ。重いのに、どこかで澄んでいる。二年前に受け取った紙の、最後から二行目に書かれていた酒の香りだった。毎晩、椀の蓋の裏から嗅いでいた香りだった。


 僕は霧吹きの首を元どおりに締め、盆の端に置いた。


 夕方、打ち水の音がした。


 八寸が出たと声がかかり、僕は大女将の立っていた場所に立った。一番だしを小鍋に取る。秤を出し、乾いた布で皿を拭き、ゼロを確かめる。量っておいた塩を、匙で鍋に落とす。


 ひとつ、と口が動きかけた。


 声には出さなかった。

 ただ唇を閉じ、匙を返した。


 淡口醤油を、秤で量った分だけ垂らす。湯気の中で醤油の香ばしさがふくらみ、引っこむ。昆布と鰹の香りが、その後ろで静かに並んでいる。


 吸い地を小皿に取り、隣の久住さんに差し出した。


 久住さんが含む。小さく頷く。


 僕は息をつき、鍋を火から下ろした。


 椀に湯を回して温め、捨て、拭う。しんじょを据え、青菜を一筋。吸い地を縁から張る。柚子の皮を松葉に切り、しんじょの右肩に、ほんの少しずらして置く。満月ではなく、十三夜の月。


 蓋を裏返して左手に持ち、霧吹きを構えた。


 手が震えていた。霧吹きの口が、蓋の上で細かく揺れた。この揺れのまま吹けば、霧は一箇所に溜まって雫になる。雫は湯気に溶けず、椀の中に落ちる。


 僕は肘を脇腹につけ、震えを肩で殺してから、ひと吹きした。


 蓋をかぶせる。こつ、と縁が触れる音。


「三番目、お願いします」


 声が、自分のものではないように聞こえた。


 葵屋には、板場の前に三席だけのカウンターがある。常連のなかでも古い客だけが座る席で、そこからは板場が見え、板場からも客の顔が見える。その夜は、長年通っている呉服屋の隠居が一人で座っていた。


 仲居が、隠居の前に椀を置いた。


 隠居は両手を膝に置いたまま、しばらく椀を眺めていた。それから蓋に指をかけ、ゆっくりと持ち上げた。


 湯気が上がった。隠居の顔が、湯気の向こうでわずかに揺れた。目尻の皺が、ほんの少し深くなった。隠居は蓋を盆に置き、椀を両手で持ち上げて、口元に運んだ。


 僕の手の震えが、そこで止まった。


 盆の上に置いた手が、いつのまにか板の木目を押さえていた。指の腹に、檜のざらつきが残っていた。


 隠居は椀を置くと、板場の僕に向かって、小さく頭を下げた。


 その夜、座敷から下がってきた仲居たちが、次々に客の言葉を板場へ運んできた。


「梅の間のお客様、今日のお吸い物は少し甘めねって。でも、いい甘さだって」


「離れの先生は、塩が先週より立ってるって。でも、秋はそれくらいでいいんだって」


「桐の間のご夫婦は、大女将はお元気かって、それだけ」


 鷹野さんが、下げられてきた椀の底を指先で舐めた。


「〇・一、多い」


 それから、少し笑った。


「でもまあ、初日にしちゃ上出来だ。大女将の椀と言われりゃ、誰も気づかねえよ」


 久住さんは何も言わず、まな板を拭いていた。


 閉店後、板場の片づけが終わったのは十二時近かった。久住さんが冷蔵庫の残り物で賄いを作った。鰤のあらと大根を炊いたもので、鍋ごと長机の真ん中に置かれた。


 昼からほとんど何も食べていなかった若い板前たちが、我先にと鍋に箸を伸ばした。


「うわ、これ、生姜がすげえ効いてる」


「大根、味しみてますね。久住さん、これ何時間炊いたんですか」


「三十分だ」


「嘘でしょう」


 久住さんは答えず、自分の椀に大根を一切れだけ取った。


 健太が、何を思ったのか、鼻を指でつまんで大根を口に入れた。もぐもぐと噛んで、首を傾げた。


「何(・)食(・)っ(・)て(・)る(・)か(・)分(・)か(・)ん(・)ね(・)え(・)」


 板場に笑いが起きた。


「なんだそれ」


「いや、鼻つまむと味が消えるって、高校の先生が言ってたんですよ。本当だ。ただの、なんか、熱いやわらかいものになる」


「お前、料理人がそれ言ってどうすんだよ」


 鷹野さんが健太の頭をはたき、また笑いが起きた。


 僕も笑った。笑って、大根を口に運んだ。熱かった。箸で割ると、中まで鰤の脂の色がしみていて、湯気の中に生姜の鋭い香りが立った。


 鷹野さんが、鍋越しに僕を見ていた。


「なあ、湊」


「はい」


「お前、味見のとき目を閉じないよな」


 鷹野さんは、大根を口に放りこんで笑った。


「いつも誰かの顔見てる。今日も久住さんの顔、じっと見てたろ。俺なんか、目つぶらないと何も分かんねえのに」


「癖なんです」


 僕は笑って返した。


「へえ。変な癖」


 鷹野さんはそれきり興味をなくしたように、健太のほうを向いた。


「おい健太、明日の朝、鰹節の在庫見とけ。本枯れが残り二本しかなかったぞ」


「はい」


「それと、お前の親子丼、明日も作れ。今度は甘くすんなよ」


「甘くないです、出汁が勝ってるんです」


「それはお前が言うことじゃねえ」


 また笑いが起きた。鍋の湯気が、天井の灯りの下でゆっくりと上っていった。


 帰り際、帳場の前を通ると、透子さんがまだ机に向かっていた。電卓を叩く音が、静かな店の中に響いていた。机の端に、空の湯呑みが二つ並んでいた。一つは透子さんのもので、もう一つは、大女将がいつも朝に茶を飲む、藍の縁の湯呑みだった。洗われずに、そこにあった。


 僕は声をかけずに、そっと裏の勝手口を出た。坂を下りる途中で、ポケットの中の手が、まだ霧吹きを構えたときの形に曲がっているのに気づいた。指を一本ずつ開いた。掌に、組紐のざらつきと、硝子の冷たさが残っていた。鼻の奥には、焦げた蜜の香りがかすかに貼りついていて、毘沙門さんの前を過ぎても、飯田橋の駅の階段を下りても、有楽町線の生ぬるい風に吹かれても、消えなかった。


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