第三章 寸分違わぬ
その雑誌を板場に持ちこんだのは、仲居頭の佐和さんだった。月曜の朝、仕込みの最中に勝手口から入ってきて、何も言わずに調理台の端に置いた。食の月刊誌で、表紙には栗と銀杏の炊き込みご飯が湯気を立てていた。付箋が一枚、頁の上から飛び出していた。
鷹野さんが手を拭いて頁を開いた。
料理評論家の小野寺という人の連載だった。秋の新店を三軒紹介する記事で、その二軒目に「割烹なるみ」とあった。四谷の荒木町、車力門通りから一本入った路地の、カウンター八席の店だという。
鷹野さんが声に出して読んだ。
「椀物に驚かされた。海老しんじょを月に見立てた澄まし椀で、吸い口に柚子。神楽坂の老舗、葵屋の月見椀と寸分違わぬ一椀である。いや、違わぬどころか、葵屋をこの店で食べているような錯覚さえ覚えた」
読み終えると、板場の音が止まっていた。誰かが鍋をかけたまま忘れていて、湯の沸く音だけがした。健太が慌てて火を止めた。
「寸分違わぬって?」
若い板前が、雑誌を覗きこんで言った。
「そんなの、うちの椀を知ってなきゃ書けないですよ」
「知ってるんだろ。小野寺さんはうちに何度も来てる」
鷹野さんの声が硬かった。
「来てる人がそう書いてるってことは、本当に同じなんだよ」
久住さんは、雑誌に目もくれずに鰹節を削っていた。しゅっ、しゅっ、と、いつもと同じ間隔で音がした。
「なるみ、って」
健太が呟いた。
「店主、鳴海蓮司」と、鷹野さんが記事の下の小さな文字を読んだ。「元は神楽坂の老舗で修業。四十二歳」
久住さんの手が止まった。
削り器の刃に、薄い節が一枚、引っかかったまま残っていた。
「久住さん、知ってるんですか」
鷹野さんが聞いた。久住さんは削り節を指で払い落とし、また刃を当てた。
「十年前までうちにいた」
それだけ言った。
昼前には、店じゅうがその話で持ちきりになっていた。鳴海さんは葵屋で十二年修業し、二番手まで上がって、ある日突然いなくなった。破門されたのだと、仲居の誰かが言った。大女将に何か言ったらしい、と別の誰かが言った。何を言ったのかは、誰も知らなかった。
僕が入店したのは、その四年後だった。だから鳴海さんの顔を、僕は知らない。
「盗んだんだよ」
賄いの席で、若い板前が言い切った。
「破門された腹いせに、うちの椀を盗んで、自分の店で出してる。それしかないでしょう」
「でも十年も前の話だろ。十年前の椀を、そのまま覚えてられるもんか」
鷹野さんが言った。その日の賄いは鯖の味噌煮で、鷹野さんは身をほぐしながら、箸の先で味噌を少しだけ舐めた。
「今日の味噌、ちょっと辛えな。健太、赤を足しすぎだ」
「すいません」
「まあいい。とにかく、十年前の記憶だけで寸分違わぬなんて言わせられるわけがない。誰かが、今の椀を教えてるんだ」
長机の上が、しんとした。
僕は味噌煮の身を口に運んだ。鯖の皮の下の脂が熱く、生姜の香りが鼻の奥をつんと刺した。
その日の午後、久住さんが僕と鷹野さんを呼んだ。
「今夜、なるみに行く。お前らも来い」
「客としてですか」
鷹野さんが聞いた。
「客としてだ。予約は若女将が取った」
久住さんは割烹着の紐をほどき、きちんと畳んで棚に置いた。片結びの癖のついた紐が、畳まれても少しだけ跳ねていた。
夜の営業を若い板前たちに任せ、三人で荒木町へ向かった。
久住さんは店の外では、灰色の古いジャケットを着る。仕立てはいいが、肘のところがすっかり光っていて、もう二十年は着ているはずだった。鷹野さんは黒いシャツの第一ボタンまで留めて、髪を手で何度も撫でつけていた。僕は、持っている中でいちばん地味な紺のセーターを着た。
四谷三丁目の駅を出て、車力門通りの坂を下りる。荒木町は窪地の町で、坂を下るほどに路地が細くなり、小さな店の灯りが寄り添うように並んでいた。どこかの店から、焼き魚の煙と醤油の焦げる匂いが流れてくる。
なるみは、その路地の突き当たりにあった。白木の格子に、藍の暖簾。暖簾の端に、小さく「なるみ」と白く抜いてある。
鷹野さんが暖簾の前で立ち止まり、煙草を取り出しかけて、やめた。
「行くぞ」
久住さんが先に暖簾をくぐった。
店の中は、檜の匂いがした。新しい檜だった。葵屋の板場の檜は、九十年分の湯気と油を吸って、もっと湿って、重く、黒い匂いがする。ここの檜はまだ若く、青く、少しだけ鼻に刺さった。
カウンターは一枚板で、八つの椅子が並んでいた。僕たちは端の三席に案内された。久住さん、鷹野さん、僕の順に座った。
カウンターの向こうに、若い板前が二人いた。どちらも知らない顔だった。店主の姿は見えなかった。
先付が出た。菊花と春菊のお浸しに、いくらが少し載っている。八寸は栗の渋皮煮、銀杏の松葉刺し、子持ち鮎の甘露煮、柿の白和え。
鷹野さんは一品ずつ丁寧に口に運び、ときどき小さく頷いた。
「柿の白和え、甘さの引き方がうまい。砂糖を使ってないな。柿の甘さだけで和えてる」
声を潜めて言った。
「渋皮煮は、少し甘すぎる。客の年齢層が若いんだろう」
久住さんは黙って食べていた。
三皿目の前に、カウンターの奥の暖簾が揺れた。
背の高い男が出てきた。白衣ではなく、藍の作務衣を着ている。髪をきっちりと後ろに撫でつけ、こめかみに白いものが混じっていた。顔の線が細く、目の下に疲れたような陰があった。
男は板前の一人に何か小声で言い、それから、カウンターの端に目を向けた。
僕と、目が合った。
男は僕を見ていた。知らない若い客を、品定めするような目ではなかった。何かを確かめるように、まっすぐに、長く見ていた。それから視線が隣の鷹野さんに移り、さらにその向こうの久住さんに止まった。
久住さんは、男を見なかった。前を向いたまま、箸置きの上で箸の先を揃えていた。
男は小さく頭を下げ、また暖簾の奥へ消えた。
あれが鳴海さんだと、誰に言われなくても分かった。
椀が出た。
黒い漆の椀だった。葵屋のものより少し小ぶりで、縁に細い金の線が入っている。僕は蓋に指をかけた。まだ、暖簾の奥のほうを見ていた。
蓋を開けると湯気が立った。
鷹野さんが椀を両手で持ち上げ、口元に運んだ。目を閉じる。吸い地をひと口、ゆっくりと含む。喉が動く。目を閉じたまま、もうひと口。
鷹野さんの顔から、血の気が引いていくのが分かった。
椀を置く手が、わずかに震えていた。
「塩も、昆布の引き方も、うちと同じだ」
低い声だった。
「〇・一も違わない。醤油の落とし方まで、大女将の椀だ」
僕は吸い地を口に含み、鷹野さんの顔を見た。
鷹野さんの唇が白くなっていた。
僕は、黙って頷いた。
久住さんが、箸を置いた。
かちり、と箸置きに当たる小さな音がした。久住さんはそれきり、椀に手をつけなかった。しんじょにも、吸い地にも。
残りの料理は、ほとんど覚えていない。焼き物は鰆の幽庵焼きだった、と鷹野さんがあとで言った。ご飯は松茸ご飯で、鷹野さんは「香りが弱い。国産じゃない」と呟いた。久住さんは勘定を済ませるまで、ひと言も口をきかなかった。
帰り道、荒木町の坂を上りながら、鷹野さんが言った。
「あれは記憶じゃない。紙だ」
久住さんは答えなかった。
「あんな細かい塩梅、十年前の記憶で引けるわけがない。誰かが紙を渡してる」
鷹野さんは立ち止まり、久住さんの背中に向かって言った。
「月見椀のレシピを紙で持ってるのは、誰なんですか」
久住さんは振り返らずに、坂の上の街灯を見上げていた。
「大女将と、何人かだ」
「何人か、って」
「門外不出だ。紙を持ってる者は、互いに誰が持ってるか知らない。大女将がそう決めた」
鷹野さんが黙った。
僕も、黙っていた。
僕は月見椀のレシピを、一枚だけ持っている。二年前の春、大女将から帳場に呼ばれ、和紙に墨で書かれたものを手渡された。誰にも見せるな、とだけ言われた。それから一度も、誰にも見せていない。
鷹野さんもきっと持っているのだと、そのとき思った。久住さんも。
誰も、自分が持っているとは言わなかった。
四谷三丁目の交差点で、久住さんがようやく口を開いた。
「今夜のことは、大女将には俺から話す。お前らは何も言うな」
信号が青に変わった。久住さんは一人で、横断歩道を渡っていった。灰色のジャケットの肘が、街灯の下で鈍く光っていた。
僕のアパートは、江戸川橋の裏手にある。六畳一間に小さな流しがついていて、窓を開けると神田川の水の匂いがする。夏は藻の匂い、冬は鉄の匂い。秋の今は、そのどちらでもない、濡れた落ち葉の匂いがした。
部屋に戻ると、僕はまず流しで手を洗い、爪の間を小さなブラシで擦る。板場の匂いを、部屋に持ちこまないためだ。それから白衣を手で洗って窓辺に干す。乾いた白衣は、翌朝アイロンをかけずに袖だけを三回折り返せば、そのまま着られる。
押し入れの奥の文箱を、久しぶりに開けた。
和紙が一枚、四つ折りになって入っている。その下に、病院の診察券が一枚、裏返しに重ねてあった。開くと、大女将の細い筆の字が、上から下まで隙間なく並んでいた。昆布の目方、水の量、火を入れる時刻、引き上げる時刻。塩は匙で何杯、醤油は何滴。しんじょのすり身の配合、蒸す時間、柚子の切り方。最後の行まで、墨の濃さが少しも変わらない。大女将はこれを、一度も書き損じずに書いたのだと思った。
紙に鼻を近づけた。墨の匂いと、古い和紙の、日向に干した藁のような匂い。二年前に受け取ったときは、そこにかすかに大女将の白粉の気配が混じっていた。香りのない白粉にも、肌に載れば肌の匂いが移る。今はもう、それも残っていなかった。
僕は紙を元どおりに四つ折りにして、文箱に戻した。窓の外を、終電を過ぎたタクシーが一台、水音を跳ね上げて通り過ぎた。
翌日の昼、透子さんが板場の全員を帳場の前に集めた。紺のスーツの胸に、昨日の雑誌を抱えていた。
「なるみのことは、みんなもう知ってると思います」
透子さんの声は落ち着いていた。
「お客様から、問い合わせの電話がもう何本も来ています。葵屋が暖簾分けしたのか、それとも作り方を売ったのか、って」
誰も口をきかなかった。
「はっきり言っておきます。この件は警察沙汰には、しません」
若い板前の一人が、思わず声を上げた。
「でも、若女将、盗まれたんですよ」
「盗まれたかどうか、証明できる?」
透子さんはその板前をまっすぐに見た。
「レシピは門外不出で、紙は数枚しかない。誰かが流したとすれば、それはこの中の誰か。警察を入れたら、その誰かは一生この業界にいられなくなる。葵屋の名前も、新聞に載る」
透子さんは雑誌を胸に抱え直した。
「それに、今は時期が悪いの」
何の時期なのかは、言わなかった。
透子さんが帳場に戻っていったあと、板場の空気はなかなか元に戻らなかった。鷹野さんは換気扇の下で、二本目の煙草に火をつけていた。いつもは一本しか吸わない人だった。
煙は回る羽根に吸いこまれて、外の路地へ抜けていく。それでも換気扇の下には、焦げた葉の苦い匂いがしばらく溜まっていた。健太が何か言いかけて、やめた。鷹野さんは煙草を流しの水で消し、いつもより長く口をすすいで、包丁を握り直した。




