第二章 月見椀
夕方五時、葵屋の玄関に打ち水がされる。仲居頭の佐和さんが柄杓で石畳に水を撒くと、濡れた石の匂いが格子戸の隙間から板場まで流れこんでくる。それが、夜の営業が始まる合図だった。
その少し前、大女将は帳場の奥の小部屋に一人で入る。襖を閉め、しばらく出てこない。出てくるときには、手に小さな霧吹きを一本持っている。硝子の、掌に収まるほどのもので、首に色の褪せた紫の組紐が巻いてある。
健太が、それを不思議そうに見ていた。
「大女将、その中身は何なんですか」
板場がしんとした。新入りの追い回しが大女将に直に口をきくことは、まずない。鷹野さんが包丁を止め、久住さんが顔を上げた。
大女将は霧吹きを胸の前で軽く振ってみせ、笑った。
「秘伝だよ」
それで終わりだった。健太は首をすくめ、鷹野さんが後ろから「百年早え」と小声で言った。大女将は霧吹きを盆の端に置き、白い前掛けの紐を締め直した。
葵屋の会席は、先付、八寸ときて、三皿目に椀が出る。献立の中心は椀だと先代は言い、だから葵屋では椀を前に寄せた。客が箸を温めきる前に、いちばん大事なものを出す。常連はそれを「三番目の皿」と呼ぶ。月見椀は、秋のあいだだけその三番目に座る。
八寸が出たと仲居から声がかかると、大女将は鍋の前に立つ。
僕の仕事は、その脇で椀を温めることだった。黒漆の椀に湯を張り、蓋にも湯を回す。冷えた椀に吸い地を張ると、湯気が立たない。立たない湯気は、香りを運ばない。
大女将は一番だしを小鍋に取り、塩壺から匙で塩を掬う。
「ひとつ」
匙を返して落とす。
「ふたつ」
もう一度。声は低く、誰に聞かせるでもない。それでも板場の全員が、その数を聞いていた。数え終えると淡口醤油を一滴、二滴。それも口の中で数えている。
吸い地を小皿に取り、隣の久住さんに差し出す。
久住さんが含む。小さく頷く。
大女将はその顔を見て、鍋を火から下ろした。
椀の湯を捨て、布巾で水気を拭う。底に海老しんじょを据える。芝海老をすり身にして、卵白と山芋でつなぎ、丸く抜いて蒸したもので、白地にうっすらと海老の紅が透けている。それが、椀の闇に浮かぶ月になる。脇に青菜を一筋。吸い地を椀の縁からそっと張る。しんじょにかけてはいけない。月が濡れて、輪郭がぼやける。
吸い口は柚子だった。皮を薄く剥いで、松葉の形に切る。大女将はそれを箸で摘み、しんじょの右肩に、ほんの少しずらして置いた。満月ではなく、十三夜の月だと、大女将は前に言っていた。少し欠けているほうが、見る者は長く見る。
最後に、霧吹きを取る。
大女将は椀の蓋を裏返して左手に持ち、霧吹きを顔の高さに構えた。ひと吹き。音もしないほどの細かな霧が、蓋の内側の漆に吸いつく。そのまま蓋を返して椀にかぶせる。蓋と椀の縁が触れる、こつ、という小さな音。
蓋の隙間から、湯気がひと筋だけ漏れた。
「はい、三番目」
仲居が盆を受け取り、廊下の向こうへ消えていく。
大女将は次の椀に取りかかる前に、健太を手招きした。健太は前掛けで手を拭きながら、おそるおそる近づいた。
「あんた、お客さんが椀を開けるとこ、見たことあるかい」
「いえ、まだ座敷には」
「先代がね、よく言ってた」
大女将は蓋を一つ手に取り、健太の目の前でゆっくりと持ち上げてみせた。
「椀は、蓋を開けた三秒で決まる」
健太は真面目な顔で頷いた。
「お客さんの気持ちを、最初の三秒で掴めってことですね」
大女将は笑って、それには答えなかった。
僕は手許の盆を見つめていた。盆の上に並んだ黒い蓋が、天井の灯りを細長く映している。大女将の声が耳の奥で何度か繰り返し、やがて板場の音に紛れていった。
九時を回ると、座敷から下がってきた仲居の口から、客の言葉が板場に届く。
「三番目のお客様、お吸い物がやさしいって。奥様のほうが、汁まで全部」
「離れの先生は、今日は塩がちょうどいいとおっしゃってました」
鷹野さんが、下げられてきた椀を一つ手に取った。底にわずかに残った吸い地を、指先につけて舐める。
「〇・二、足りねえな。先生は年だから、それでいいんだろうけど」
久住さんが、ちらりと鷹野さんを見た。
「よく分かるな」
「分かりますよ。大女将の吸い地は、十年舐めてますから」
久住さんはそれ以上何も言わず、まな板を拭きはじめた。褒めるときの久住さんは、たいていそうして黙る。
冷めた吸い地は塩が強く出る、と久住さんは前に言っていた。熱いうちは塩が湯気に隠れ、冷めるにつれて舌の上に浮いてくる。座敷で湯気ごと含んだ先生の「ちょうどいい」と、板場で冷めた底を舐めた鷹野さんの「足りねえ」は、同じ椀から出た二つの答えだった。僕は帳面の隅に、先生の言葉と鷹野さんの数字を並べて書き留めた。どちらが正しいのかを、僕は書かなかった。
下げられた椀は、縁の内側にうっすらと柚子の油が残っている。湯で流すと、その油が一瞬だけ香って、すぐ消えた。漆の椀は、洗剤を使わずに湯と柔らかい布だけで洗う。強くこすると、九十年分の艶が曇る。僕は一つずつ、蓋の裏から先に洗った。霧吹きの酒がかかっていた場所だった。そこに鼻を近づけると、湯に流される前の、ほんのかすかな、焦げた蜜のような気配があった。
閉店後、洗い物を終えて帳場の前を通りかかると、襖の向こうから声がした。
「お母さん、ちゃんと数字を見て」
若女将の透子さんの声だった。いつも低く抑えた声で話す人で、その声がわずかに上ずっていた。
襖が少し開いていた。帳場の机に、透子さんが紺のスーツのまま座っている。若女将になってからも、透子さんは着物で帳場に座ったことがない。仕立てのいい紺のスーツに、白いシャツの襟をきちんと立てて、爪はいつも短く切りそろえ、色を塗らない。料理に触れない人の手なのに、料理人の手のように見えた。
机の上に書類が広げてあった。ミツハ、という文字が見えた。外食の大きなグループで、駅前のビルにいくつも店を出している。
「ミツハの戸倉さんは、屋号も残すし、板場もそのまま使うって言ってくれてる。今なら、みんなの給料も退職金も守れるの」
大女将は答えなかった。机の向こうで、膝の上に手を重ねて、じっと座っている。
「お母さんの椀で、借金は返せない」
透子さんの声が、そこで途切れた。
しばらく、柱時計の音だけがしていた。
やがて大女将が、ぽつりと言った。
「戸倉って人は、うちの子にも声をかけてるのかね」
透子さんが顔を上げた。
「何のこと?」
大女将はそれきり口を閉ざした。僕は足音を立てないように、勝手口へ戻った。
帰りは鷹野さんと一緒になった。神楽坂の坂を下り、毘沙門さんの前を過ぎて、飯田橋の駅へ向かう。夜の坂は人通りが絶えて、石畳に料亭の灯りがまばらに落ちていた。
鷹野さんは坂の途中で立ち止まり、煙草に火をつけた。店の中では換気扇の下でしか吸わない人が、外では深く、ゆっくり吸う。煙が街灯の光の中で、ほどけながら上っていった。
「湊、お前さ」
「はい」
「いつか月見椀、やりたいと思うか」
僕は答えに詰まった。鷹野さんは返事を待たずに、煙を吐いた。
「俺はやりたい。十年待ってるんだ。入ったときから、ずっとあの椀を見てきた」
鷹野さんは、坂の上の葵屋の屋根を振り返った。
「大女将の吸い地なら、目をつぶってても同じものが引ける。塩も醤油も、昆布の引き上げどきも、全部ここに入ってる」
鷹野さんは自分の舌を指でとんとんと叩いた。
「でもな、触らせてもらえねえんだよ。一回も。久住さんにも聞いたけど、大女将が決めることだって、それだけでさ」
煙草の先が赤くなり、また暗くなった。
「お前は真面目だから、そのうち俺より上に行くかもな。そしたら、俺に椀を一回だけ触らせてくれよ」
鷹野さんは笑って、僕の背中を叩いた。その手は大きくて、温かかった。
僕は何も言えなかった。坂の下から、終電に急ぐ人の靴音が上がってきた。




