第一章 一番だし
葵屋の厨房に灯りが入るのは、毎朝五時半と決まっている。決めたのは僕で、決めたことを誰にも言っていないから、それを知っているのは神楽坂の石畳を上ってくる新聞配達の青年くらいだった。
勝手口の鍵を回すと、夜のあいだに冷えきった土間の匂いが足首にまとわりつく。濡れた石と、古い檜と、前の晩に流した洗剤のかすかな柑橘。その底に、昨日の鰹節の名残が薄く沈んでいる。十月に入ってから、この匂いは朝ごとに少しずつ乾いてきた。
白衣に袖を通し、袖口を三回折り返す。三回で手首の骨がちょうど出る。二回では水仕事のたびに濡れ、四回では肘のあたりがもたつく。六年前、入ったばかりの頃に久住さんから「袖で仕事が決まる」と言われて以来、数を変えたことはない。
寸胴に井戸水を張り、利尻の昆布を沈める。昆布は前の晩から水に浸けておくのが葵屋の決まりで、僕の仕事はそれを朝のうちに火にかけることだった。指先で水面を撫でると、昆布の表面に吹いた白い粉が溶けて、水がわずかにぬめる。磯の香りはまだ立たない。冷たい水の中では、昆布は眠ったままだ。
火を弱く入れる。湯が六十度のあたりを行き来するように、火口の青い炎を爪の先ほどに絞る。温度計は使わない。鍋の縁に細かな泡がつき始め、それが底から離れようとして離れない、その手前の気配で見る。ここで急ぐと昆布のぬめりが湯に出て、だしが濁る。
待つあいだに鰹節を削る。削り器の刃を指の腹で確かめ、本枯れの節を斜めに当てる。木の台を押すたびに、しゅっ、と乾いた音がして、薄い花びらのような削り節が箱の中に溜まっていく。燻した木の匂いと、日に干した魚の脂の、こもった匂い。削りたての節は、袋入りのものとは香りの輪郭がまるで違う。空気に触れた瞬間がいちばん強く、そこから一分ごとに丸くなっていく。
寸胴から湯気が立ち、厨房の空気がゆるむ。昆布を箸で持ち上げると、肉厚の葉がたわみ、爪を立てればすっと入るほどにやわらいでいた。引き上げる。鍋から抜け出た昆布の香りが、湯気といっしょに顔へ上がってくる。磯というより、雨上がりの岩場の、濡れた苔に近い。
火を強める。湯が踊りかけたところで差し水をし、削り節をひとつかみずつ落とす。節は湯の上でいっとき浮き、やがて重くなって沈んでいく。その沈む速さで、湯の温度が分かる。
沈みきったところで火を止め、そのまま待つ。数えるのは心の中だけにしている。声に出すと、なぜか手が遅れる。
さらしを張った漉し器に、そっと流す。節を絞ってはいけない。絞ると、渋みと生臭さが一緒に落ちてくる、と僕は教わった。自分の重さで落ちる分だけを受け取る。琥珀より淡い、透けた金の液が、ボウルの底に溜まっていく。
湯気に顔を寄せる。鰹の燻香が先に来て、昆布の静かな気配があとから追いかけてくる。二つが喧嘩せずに並んでいる。
「香りが立ってますね」
誰もいない厨房で、つい口に出してしまった。
六時を過ぎると、鷹野さんがやってくる。勝手口の戸を肩で押して入ってきて、まず換気扇の下で煙草を一本だけ吸う。それから流しで念入りに手を洗い、口をすすぐ。髪は短く刈り込んで、整髪料をつけない。料理人が頭から匂いをさせるのは恥だ、というのが鷹野さんの口癖で、それなのに煙草だけはやめられない。
「おう、早いな湊。また一番乗りか」
「おはようございます」
僕は調理台に秤を出していた。デジタルの、〇・一グラムまで量れるもので、自分の給料で買った。使う前に乾いた布で皿を拭き、ゼロを確かめる。小皿に塩を落とし、表示の数字が揃うまで、耳かきのような匙で一粒ずつ足していく。
鷹野さんが肩越しに覗きこんだ。
「出たよ、理科の実験が」
「性分なんです」
「性分ねえ。俺が追い回しだったころは、そんなことしたら親方に匙で手ぇ叩かれたぞ。塩は指で覚えろってな」
洗い場にいた健太が笑った。入って一年目の追い回しで、まだ包丁を握らせてもらえず、朝は鍋と床を磨いている。
「湊さんの塩、毎日同じ数字なんですか」
「同じ日はないよ。昆布の具合で変わる」
「じゃあ何のために量るんですか」
鷹野さんが健太の頭を軽くはたいた。
「余計なこと聞くな。湊の秤は葵屋の名物なんだよ。そのうち博物館に飾られる」
また笑いが起きた。
厨房の朝が、それでようやく始まる。
吸い地を仕上げる。一番だしを小鍋に取り、量った塩を落とし、淡口醤油を数滴、これも秤で量ってから垂らす。醤油の香ばしさが湯気の中で一瞬ふくらみ、すぐに引っこむ。
久住さんが来たのは七時前だった。料理長は誰よりも遅く来て、誰よりも遅く帰る。来るとまず割烹着の紐を背中で結ぶ。蝶結びにはせず、片結びにして端を内側に押しこむ。解けにくく、引っかからない。その手つきは毎朝寸分も変わらない。
僕は吸い地を小皿に取り、久住さんに差し出した。
久住さんは小皿を受け取り、鼻の下で一度止めてから、静かに含んだ。舌の上で転がすように、ほんの少しのあいだ目を伏せる。
「今日は塩が立ってる」
そう言って、小皿を返した。眉の右側が、ほとんど分からないほどわずかに上がっていた。
僕は手許の帳面を開き、今朝の数字の横に鉛筆で線を引いた。一つ下の数字を書き直す。小鍋に一番だしを少し足し、秤で量り直して、もう一度小皿に取る。久住さんはもう別の鍋を見ていたが、差し出すと黙って含み、今度は何も言わずに頷いた。眉は動かなかった。
帳面の数字を、もう一度書き直した。
十時の賄いは親子丼だった。作ったのは健太で、まだ不慣れな手つきで溶き卵を回し入れ、蓋をして蒸らした。丼が並ぶと、厨房の隅の長机に板前たちが肩を寄せて座る。
鷹野さんが一口かきこんで、箸を止めた。
「今日は甘めだな」
健太が首をすくめる。隣の若い板前が、汁を啜って言った。
「いや、出汁が勝ってるんですよ。みりんは控えめです」
「お前ら、どっちの味方なんだよ」と健太が泣き言を言い、また笑いが起きた。
僕は丼を持ち上げた。熱が掌を通って、指の付け根まで届く。卵は半熟のまま鶏肉に絡み、箸で持ち上げると、ゆるく揺れながらまとまっていた。鶏の皮からは脂の香ばしい匂いがし、三つ葉の青い香りが最後に鼻へ抜けた。
「卵がふわっとしてますね」
健太が顔を上げて、ほっとしたように笑った。
「湊さんはいつも優しいなあ」
鷹野さんが鼻で笑った。
「優しいんじゃねえよ。こいつは口下手なんだ。褒めるとこを探して、結局、食感しか言わねえ」
僕は笑って、もう一口食べた。ご飯の熱さが、舌の上で長く残った。
昼の仕込みが一段落したころ、大女将が厨房に下りてきた。
葵千代は八十一歳になる。背筋を伸ばし、藤色の江戸小紋に生成りの帯を締めて、足袋の白がいつも眩しいほど白い。白粉は香りのないものしか使わず、香水は生涯一度もつけたことがない、と前に仲居頭から聞いた。板場に下りる女が匂いをさせてどうする、というのが先代の教えだったらしい。
大女将は僕の小鍋の前で立ち止まり、湯気の上に顔を寄せた。皺の深い瞼を閉じ、細く長く息を吸う。
「いい匂いだね」
それだけ言って、帳場へ戻っていった。
声の端が、少し上がっていた。調子が上がるのは、良いときだ。下がるときは、何も言わずに鍋の前を通り過ぎていく。六年のあいだに、僕はその違いを聞き分けられるようになった。
僕は小鍋を火から下ろし、帳面の数字をそのままにして閉じた。
午後、乾物の棚を整理していると、茶筒が一つ出てきた。賄いの後に出す番茶を入れておくもので、蓋を開けた途端、焙じた葉の香ばしさが鼻の奥に広がった。
静岡の実家の茶畑を思い出した。
子どもの頃、祖父とよく遊んだ。祖父は茶の葉を小さな紙袋に分けて、僕に目をつぶらせる。袋の口を鼻先で開ける。その一瞬で、どこの畑の葉か、いつ摘んだ葉かを当てる遊びだった。山の上の畑は、霧の匂いがした。川沿いの畑は、土の匂いが濃かった。一番茶は青く鋭く、二番茶は日向の干し草のように丸い。
袋を開けた瞬間がいちばん分かる、と祖父は言った。ぐずぐずしていると、香りはすぐに部屋の空気に混ざって、どれも同じになってしまう。
僕は茶筒の蓋を閉め、棚の元の場所に戻した。手のひらに、焙じた葉の香りが少しだけ残っていた。




