第7話 崩壊
社内調査が動き出して三日目、神谷湊の顔つきはようやく変わり始めた。
最初はまだ、言い回しの問題だと笑っていられたのだろう。
少なくとも、表向きは。
だが顧客側の議事録や打ち合わせメモが揃い始めた途端、その余裕は少しずつ剥がれていった。
数字で押し切ってきた男が、初めて数字では消せない記録に追い詰められていた。
完全に崩れたわけではない。
むしろ最初のうちは驚くほど平然としていた。
「言い回しの問題だろ」
「顧客との認識差は営業ならある」
「契約書を読んで押印してる以上、こっちだけの責任じゃない」
そう言って、黒川や管理部門のヒアリングにも応じていたらしい。
フロアに戻ってくるときの足取りも乱れていない。若手に営業トークを教える余裕すら見せていた。
それが持ったのは、二日目までだった。
三日目の午後、Breeze社だけでなく、別の二社からも正式な照会が入った。
ひとつは打ち合わせメモの写し付き。もうひとつは、担当者が社内で共有していた議事録付き。
どちらも、湊の説明と契約条項のズレを具体的に示していた。
認識差では済まない。
誰の目にもそう見える段階まで来ていた。
その日から、湊は会議室に呼ばれる回数が増えた。
――確認という名の追及に。
部長、管理部門、法務寄りの担当、黒川。
表向きは確認。けれど実質は追及だ。
双葉は自席から、そのたびに見ていた。
呼ばれていく背中。戻ってくる顔。
最初はまだ余裕の笑みを貼りつけていた彼が、次第に口数を減らしていくのを。
それでも、胸に溜まるのは爽快感ではなかった。
当然だという思いと、もう引き返せないところまで来てしまったという鈍い痛みが、同時にある。
ただ一つ確かなのは、もう「気のせい」では済まないということだけだった。
四日目の朝、営業一課の空気は明らかに変わっていた。
誰も湊に話しかけないわけではない。けれど以前みたいに、彼を中心に笑いが生まれることはない。
若手は距離を測り、同僚は必要最低限の会話しかしない。
数字を持つ人間には人が集まる。
その数字が危うくなった瞬間、人は驚くほど早く離れる。
部長だけは、まだ表向き湊を庇っていた。
「今は余計なこと考えなくていい。まず顧客対応を優先しろ」
「会社として整理する」
「感情的にならずにいこう」
だがその言葉も、どこか腰が引けていた。
整理する、という言い方は、守るためにも切るためにも使える。
そして双葉もまた、無傷ではいられなかった。
ある日の昼休み、給湯室で佐伯に声をかけられる。
「朝倉さん、大丈夫?」
「……何が?」
「いや、その……最近、神谷さんと気まずいって噂になってるから」
噂。
その言葉に、双葉は一瞬だけ目を閉じた。
もちろん、そうなるだろうと思っていた。
恋人同士だったことを知っている人間は多くないが、近い距離で話していたこと、最近露骨に会話がなくなったこと、調査が始まる直前から双葉が記録整理に関わっていたこと。
断片をつなげれば、何かを勘ぐる人は出る。
「別に、大丈夫」
そう答えるしかなかった。
でも佐伯は気まずそうに視線を落とす。
「……ごめん。変な言い方だけど、あんまり目立たないほうがいいかも。いま、誰が何を見てたとか、結構みんな気にしてるし」
その忠告が善意なのは分かる。
分かるからこそ苦かった。
双葉は湊を告発してヒロインになったわけではない。
むしろ逆だ。
フロアの一部ではもう、「恋人だからこそ内側の情報を流したんじゃないか」という目も生まれていた。
仕事帰り、エレベーターでたまたま乗り合わせた別部署の社員が、双葉にだけ妙によそよそしく会釈したこともあった。
廊下で会話が止まることもあった。
誰も正面から責めない。だが、“見ている”空気だけは確かにある。
代償は、もう始まっていた。
五日目の夕方、決定打が入った。
過去三か月分の湊案件を精査した結果、説明内容に重大な齟齬の疑いがある案件が複数確認された。
そのうち二件は顧客側で正式な問題提起の可能性あり。
部長はフロア全体には開示しなかったが、会議室から出てきた黒川の顔を見れば、何が起きたかは十分だった。
そして、その夜。
湊は初めて双葉の前で完全に感情を崩した。
定時を過ぎ、フロアの人が半分ほど帰ったころ。
双葉が資料を片づけていると、デスクの前に影が落ちる。
顔を上げると、湊が立っていた。
目の下に薄い隈ができている。ネクタイは緩み、シャツの襟元も乱れていた。
「ちょっと来い」
声は低く、抑えられていた。
双葉は一瞬迷ったが、周囲の視線がある場所で拒絶するほうが余計に波紋を広げる気がして、黙って立ち上がった。
連れて行かれたのは非常階段だった。
人気のない踊り場に、古い蛍光灯の白い光が落ちている。
「何」
双葉が先に口を開くと、湊はすぐには答えなかった。
手すりに片手をつき、数秒だけ俯く。
その姿に、ほんのわずかだけ、昔の彼を思い出しかける。追い詰められても人前では崩れない、でも一人のときだけ息を吐く彼を。
けれど次の言葉で、その残像は消えた。
「どこまで渡した」
「……全部じゃない」
「じゃあ、何を残してる」
「そういう聞き方、まだするんだ」
湊が顔を上げる。
その目には怒りと焦りが混ざっていた。
「お前、分かってるか。これ、俺だけの話じゃなくなってる」
「最初からそうだったでしょ」
「違う。いま会社全体の問題になるかもしれないって言ってるんだよ」
「だから?」
「だから、落としどころが必要なんだろ!」
階段に声が反響した。
双葉は、一瞬、瞬きを忘れた。
落としどころ。
またその言葉だった。
どこまで行っても彼は、止まることではなく、どう着地させるかしか考えない。
「顧客に返金するのか、部長が謝るのか、サポートに追加対応させるのか、そういう整理が要るんだよ。なのに黒川が全部ひっくり返して――」
「ひっくり返したのは神谷さんでしょ」
「俺のせいにするな!」
双葉の胸の奥で、最後の何かが冷え切っていく。
「自分で言ったじゃん。数字が落ちるならやめないって」
「現実見ろよ!」
「見てるよ。ずっと見てきた」
声は不思議なくらい静かだった。
静かなまま、双葉は続ける。
「顧客からのメールも、サポートの電話も、事務処理も、全部見てきた。神谷さんが“通るように話した”あとの現場を、ずっと」
湊は何か言おうとして、言葉を失う。
「ねえ。今さら会社が困るからって、私に何をしろって言うの」
「……証拠の扱い、少し待てって言ってるだけだ」
「消す時間がほしいだけでしょ」
その一言で、湊の顔色が変わった。
図星だった。
「そこまで言うか」
「そこまでやってきたのは神谷さんだよ」
階段の下から、どこかのドアが開閉する音が響いた。
でも、二人の間の空気は動かない。
湊はやがて、疲れ切った声で言った。
「……俺、終わるかもしれない」
双葉は黙る。
初めて聞いた、弱い声だった。
「処分になったら、この業界もう厳しい。部長も距離置き始めてる。顧客まで正式に騒いだら、たぶん終わる」
それは、懇願の一歩手前だった。
双葉の胸が痛まなかったわけじゃない。
好きだった人が、目の前で壊れ始めている。痛まないはずがない。
でも、同時に分かってしまう。
痛いほどに。
彼がいま怖がっているのは、傷つけた相手のことじゃない。
自分の終わりのことだ。
「……私に、どうしてほしいの」
訊いてしまったのは、たぶん最後の未練だった。
湊はすぐ答えた。
「黒川に言ってくれ。感情的になって早まった、って」
双葉は、目を見開く。
「……何それ」
「お前が言えば、少しは変わるかもしれない」
「私は感情で動いたんじゃない」
「でもそういうことにできる」
その瞬間、双葉の中で何かが完全に死んだ。
もう、言い訳の余地ごと。
――違う。
この人は今、助けてくれと言っているんじゃない。
自分を守るために、私の言葉まで使おうとしている。
「……もう無理」
「朝倉」
「無理だよ」
双葉は一歩下がった。
湊の顔が、ひどく遠く見える。
「最後まで、自分のことしか見てない」
「違う」
「違わない」
今度はきっぱり言えた。
「もし少しでも違うなら、最初に出てくるのは“顧客に悪かった”でしょ。サポートに悪かった、現場に悪かった、私に悪かった、でしょ。でも神谷さん、今もずっと、自分が終わる話しかしてない」
湊は唇を引き結ぶ。
その顔に返す言葉はない。
「……もう、終わりにして」
「仕事の話だろ」
「違う」
双葉は首を振る。
「これはもう、人としての話」
そのまま踵を返し、階段を上がる。
もう呼び止める声はなかった。
翌日、社内に正式なヒアリング拡大の通知が出た。
湊は午前中いっぱい会議室から戻らず、午後に出てきたときには、誰が見ても以前の彼ではなかった。
定時直前、双葉のスマホに短いメッセージが届いた。
『もう連絡しない』
送信者は神谷湊。
たったそれだけの文なのに、不思議なほど何も残っていなかった。
怒りも、未練も、言い返したい言葉さえ。
双葉は画面を伏せた。
夕焼けの消えかけた窓の外を見た。
返す言葉は、もうなかった。
これで、本当に全部終わった。
少なくとも、二人のあいだでは。
崩れるときって、意外と静かです。
むしろ周りのほうが、先に距離を取ります。




