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社内恋人の違法営業に気づいたので、私は証拠を揃えて告発した  作者: そらのことのは


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第6話 裏切りではなく決断

 翌朝、双葉は出社前に一度だけ立ち止まった。

 会社のビルを見上げたまま、動けなかった。


 ノートパソコンの中には、神谷湊を止めるための材料が揃っている。

 それでも、恋人を守りたい気持ちが消えたわけじゃない。


 それでも今日ここへ来たのは、もう恋人として言葉を尽くす段階が終わったと、自分で認めるためだった。


 昨夜まとめたフォルダは、そのままノートパソコンの中にある。

 会議ログ。契約書。問い合わせ履歴。ヒアリングシート。湊自身が残した社内メモ。

 どれも単体なら言い逃れの余地はあるかもしれない。けれど並べれば、流れが見える。


 見えてしまう。逃げ場がなくなる形で。

 神谷湊が、偶然ではなく、繰り返し、契約のために言葉を削ってきたことが。


 逃げようと思えば、まだ逃げられた。

 黒川からのチャットを見なかったことにして、今日も事務の顔で席につくことはできる。

 恋人として彼を許すことはできなくても、見て見ぬふりをして、ただ距離を置くことはできたはずだ。


 でも、それでは止まらない。

 昨日、湊は自分の口で言った。

 数字が落ちるなら、やめないと。


 双葉は目を閉じる。

 胸の奥は痛かった。怒りより、ずっと静かな痛みだった。


 好きだった。

 たしかに。

 営業としての強さも、迷いなく前へ出る姿も、誰より結果を取りにいく自信も。

 その強さが、まさかこんなふうに誰かを踏みつける方向へ向いているなんて、信じたくなかった。


 けれど、信じたくないことと、見なかったことにすることは違う。


 双葉は小さく息を吐いて、ビルの中へ入った。


 午前九時前、黒川との約束は会議室ではなく、資料室の奥だった。

 人目につきにくい場所を選んだのだろう。ドアを閉めると、紙とインクの乾いた匂いだけが残る。


「来てくれてありがとう」


 黒川はいつも通りの声で言った。

 責めるでも、促すでもない。そこが逆に逃げ場をなくす。


 双葉はノートパソコンを抱えたまま立っていた。


「……まだ、全部を渡すって決めたわけじゃないです」


「それでいい」


「え」


「決めるのは朝倉さんだ」


 黒川は壁際の棚にもたれず、きちんと立ったまま続けた。


「俺は、証拠が必要だから来てもらった。でも、それ以上に、君が何を守りたいのかを自分で決めないと意味がない」


 双葉は黙る。

 守りたいもの。そんなものは、昨日までならはっきりしていた。


 神谷湊。

 恋人である彼のことを、どこかで守りたいと思っていた。多少強引でも、多少危なっかしくても、ちゃんと話せば戻れるんじゃないかと。


 でも今は違う。

 守りたいのは、もっと別のものだった。


「……私は、彼を落としたいわけじゃないです」


「分かってる」


「罰を与えたいわけでもない」


「それも分かってる」


 黒川は短く頷く。


「止めたいんだろ」


 その一言に、双葉は初めて少しだけ呼吸が楽になった。

 そうだ。そうだったのだ。

 裏切りではない。復讐でもない。止めたいのだ。


 これ以上、湊が言葉で押し切り、現場が火を消し、顧客が不信を飲み込む流れを。

 このまま数字の陰で積み上がっていく何かを。


「……はい」


 声は震えていたが、言えた。


「じゃあ、必要なものを見せてほしい」


 双葉はゆっくりパソコンを開く。

 ――戻れない動作だった。


 作っておいたフォルダ名が画面に現れる。


『神谷案件_説明差異記録』


 黒川の目が、わずかに細くなった。

 だが何も言わない。双葉が一つずつファイルを開くのを待つ。


「これが、Breeze社の会議ログです。追加費用なし、って言ってる箇所が残ってます。こっちは契約書。条件付きで追加費用が発生する条項があります」


「ヒアリングシートは?」


「これです。外部連携希望が事前に入ってます」


「つまり、発生可能性を知った上で“なし”と言ってる」


 双葉は頷く。自分で口にすると、言葉の重みが増した。


「次が、解約条件です。“実質気にしなくて大丈夫”と説明してますけど、最低利用期間と違約金の条項ははっきりあります」


 そのあとも、双葉は淡々と画面を進めた。

 昨日までなら止まっていたはずの指先を、今日は止めてはいけなかった。


 案件ごとの問い合わせ履歴。

 社内メモに残る「解約条件は先に出すと止まる」という文。

 営業チャットの断片。

 顧客から送られてきた打ち合わせメモの写真。


 黒川は途中で口を挟まなかった。

 ただ必要な箇所だけを確認し、日付と案件名を控えていく。


 ひと通り見終えたあと、資料室にはしばらく沈黙が落ちた。

 最初に口を開いたのは双葉だった。


「……これで、足りますか」


 黒川はすぐには答えず、パソコン画面を見たまま言った。


「足る、じゃなくて、動ける」


 双葉の喉が乾く。


「社内調査の起点には十分だ」


 社内調査。

 その言葉が現実になると、急に手の震えが戻ってくる。

 双葉は膝の上で拳を握った。


「朝倉さん」


 黒川の声が少しだけ低くなる。


「ここから先は、たぶん綺麗には済まない」


 双葉は顔を上げた。


「神谷は反発する。上も最初は守ろうとするかもしれない。君も、巻き込まれる」


「……はい」


「それでもやるか」


 最後の確認だった。

 誰かに押されたくなかった。

 あとで“黒川に言われたから”にはしたくなかった。


 双葉は目を閉じる。

 昨夜のカフェ。

「無理だ」と即答した湊の顔。

「それ、お前らの仕事だろ」と言った声。

 あれが、最後だった。


「やります」


 今度は、迷わなかった。


 黒川は短く息を吐き、「分かった」とだけ言った。

 それから、パソコン画面を指さす。


「このフォルダ、共有化はしない。まずは俺の管理下で複製を取る。原本は君の手元にも残しておいてくれ」


 その言い方に、双葉は少しだけ現実へ引き戻される。


「……消される可能性、ありますか」


「ゼロじゃない。だから先に押さえる。会議ログもチャットも、残ってるうちに」


 双葉はぞっとする。


 資料室を出るころには、双葉の足元が少しだけ揺れていた。

 決めたはずなのに、心は軽くならない。むしろ重くなる。


 当然だった。

 これは誰かを助けるための綺麗な行為じゃない。

 好きだった相手の背中に、自分で決定打を打ち込むようなものだ。


 午前中のうちに、黒川は動いた。

 法務寄りの管理部門と、部長より上のラインに最小限の共有を入れ、Breeze社案件を中心に確認が始まる。


 表向きは「契約説明に関する認識差異の精査」。

 けれど実際には、その言葉の下にもっと鋭いものが隠れていた。


 フロアにも、昼前には空気の変化が広がった。

 いつもより会議室の使用が増え、サポート部門のマネージャーが営業一課へ来て、部長とひそひそ話している。

 誰も大声では何も言わない。だが、何かが始まったことだけは全員が分かる。


 湊がそれに気づかないはずがなかった。


 昼休み前、彼は双葉のデスクの前で立ち止まった。


「ちょっといい?」


 声は穏やかだった。

 でもその穏やかさが逆に怖い。

 双葉は立ち上がり、誰もいない給湯スペースの前までついていく。


「何かした?」


 単刀直入だった。


「……何か、って」


「黒川が朝から動いてる。Breezeだけじゃなく、他の案件まで確認入れてる。タイミングがおかしい」


 湊の目が、双葉の表情を探るように細まる。


「お前、何か渡した?」


 胸の奥が強く打つ。

 でも、ここで逸らしたら全部が嘘になる気がした。


「……確認できるものは、確認した」


「それを黒川に?」


 双葉は数秒沈黙してから、頷いた。


 湊の顔から、すっと熱が消えた。

 驚きより先に、信じられないものを見る顔だった。


「本気でやったのか」


「止めたかったから」


「止めたかった?」


 湊は乾いた笑いを漏らした。


「俺を売ったくせに」


「売ってない」


「同じだろ」


「違う」


 双葉は強く言い返した。


「昨日、最後に聞いたよ。やめてって。それでも神谷さん、自分で無理だって言った」


「だからって黒川に渡す?」


「恋人として言っても、届かなかったから」


 湊の目が揺れる。

 怒りか、侮蔑か、それとも別の感情か、双葉には分からなかった。


「……最低だな」


 先にそう言われたのは、双葉のほうだった。


 痛かった。

 それでも、もうよかった。


「そうかもしれない」


「開き直るなよ」


「開き直ってるのは神谷さんでしょ」


 湊の眉が寄る。

 双葉はもう止まらなかった。


「自分で言ったよね。数字が落ちるならやめないって。現場が困るのは仕事だからって。だったら私も、自分の仕事をする」


「自分の仕事?」


「見て見ぬふりをしないこと」


 短い沈黙。

 そのあと、湊は本当に初めて見る目で双葉を見た。


 怒っているのに、冷えていた。

 感情の一段下で、何かを切り離した目だった。


「……分かった」

 ――その声は、妙に静かだった。


 双葉はその静けさに、かえって胸がざわつく。

 だが湊はそれ以上何も言わず、踵を返して去っていった。

 振り返らなかった。


 背中を見送ったあと、双葉はその場でしばらく動けなかった。

 終わった、と思った。

 何がとは言えない。

 けれど、恋人としての二人は、今ので完全に終わった。


 夕方、社内チャットに短い通知が流れた。


『一部案件に関する契約説明の確認のため、対象者へ順次ヒアリングを実施します。関係資料の削除・改変は行わないでください。』


 誰の名前も書かれていない。

 それなのに、フロアの空気は一瞬で凍った。

 誰も、声を出さなかった。


 双葉は画面を見つめたまま、小さく息を吐く。


 もう、何も元には戻らない。

 戻す気もなかった。

これは復讐じゃないです。

“止める”という選択が、一番きつい形で出た回です。

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