第5話 対立
朝倉双葉は、その日一日、神谷湊と目を合わせられなかった。
会議ログに残っていた言葉も、契約書の条項も、社内チャットの“整理する”という一文も、全部がまだ胸の奥に刺さったままだった。
もう疑いではない。
それでも最後に一度だけ、自分の口で止めなければならない気がしていた。
いや、正確には、合わせられなかった。
見れば思い出してしまうからだ。
会議ログに残っていた、あの言葉を。
『追加費用なしで進められます』
『実質、そこは気にしなくて大丈夫です』
『まずは導入をご判断いただくのが一番早いです』
どれも湊の声で再生された。
画面の上の文字なのに、はっきりと耳の奥で響く。
しかも、そのあとに社内チャットへ投げられた文まで見てしまった。
『文脈抜きで見られると面倒だから、一旦こっちで整理する』
整理。
その言葉が何を意味するのか、もう双葉には分かってしまっていた。
不都合なものを、不都合でない形に変えること。
丸めること。
見えなくすること。
夕方六時を回るころには、フロアから人が少しずつ減り始めていた。
けれど双葉は帰る準備ができなかった。
保存したファイルの入ったフォルダを、何度も開いては閉じてしまう。
このまま何も言わなかったら。
見なかったことにしたら。
自分はたぶん、明日からも同じ顔で彼の横に立つことになる。
それだけは、もう無理だった。
双葉が席を立ったのは、時計が七時を少し回った頃だった。
湊はまだ残っていた。自席でノートパソコンを開き、イヤホンを片耳だけ入れて何かの資料を見ている。
いつもの姿だった。
見慣れた横顔。
なのに今は、その何も変わらなさが恐ろしかった。
「神谷さん」
声をかけると、湊はイヤホンを外し、少しだけ意外そうに目を上げた。
「まだいたの」
「話したい」
双葉がそう言うと、湊は数秒黙ってからパソコンを閉じた。
軽く伸びをして立ち上がる。
「ここじゃ何だし、下行く?」
会社の入っているビルの一階には、小さなカフェスペースがある。営業帰りの社員がよく使う場所だ。
もう閉店間際で人も少ない。二人は奥のテーブルに向かい合って座った。
ガラスの向こうはもう夜だった。
外を歩く人の流れだけが、こちらとは無関係に過ぎていく。
「で?」
先に口を開いたのは湊だった。
声は穏やかだったが、早く本題に入れと言いたげな温度があった。
「今日見た会議ログのこと」
「やっぱりそれか」
「やっぱり、じゃないよ」
双葉は自分の膝の上で手を握りしめる。
手が震えないようにするだけで精一杯だった。
「神谷さん、あれ、どう見ても説明と違う」
「違わないって昨日から言ってるだろ」
「違うよ。契約書に書いてある条件を、軽く見せてる」
「軽く見せてるんじゃない。相手が判断しやすい順番で話してるだけ」
「順番の問題じゃない」
湊はため息をついた。
まるで、何度説明しても伝わらない相手を前にしたときみたいに。
「朝倉、落ち着いて聞いて。営業って、相手に全部を同じ重さで渡す仕事じゃないんだよ」
「そんなの分かってる」
「分かってないからそういうこと言うんだろ」
その一言が、双葉の胸に鋭く刺さった。
「私が分かってないの?」
「少なくとも現場の勝負の仕方は分かってない」
「勝負の仕方って、嘘つくこと?」
「嘘じゃない」
「じゃあ何」
「現実的な着地のための言い方だよ」
双葉は言葉を失った。
ここまで来ても、彼の中ではまだ“言い方”の問題でしかないのだ。
「追加費用が出る可能性があるのに、“なしで進められます”って言うのは?」
「通常運用なら、って前提つきだろ」
「でも相手はその通常運用じゃない」
「結果論だ」
「結果論じゃない。ヒアリングで分かってた」
湊は少しだけ目を細めた。
その顔は、図星を突かれた人間の顔だった。
「……だから何」
低い声だった。
開き直りに近い響きが、双葉の背筋を冷たくなぞる。
「だから何って……それが問題なんでしょ」
「問題にしたいのは、お前だろ」
双葉は息を詰めた。
「私は、止めてほしいだけだよ」
「止める?」
「これ以上。同じこと続けるの」
湊は椅子の背にもたれ、腕を組んだ。
その仕草にはもう、恋人と向き合う柔らかさはなかった。営業の場で、譲れないラインを引くときの顔だ。
「朝倉。ひとつ聞くけど」
「……なに」
「俺が今のやり方やめて、数字落ちたらどうするの」
予想していなかった問いに、双葉は言葉を止める。
「どうするって……」
「部長は評価しない。会社も守らない。客は綺麗な説明だけで判子押してくれるほど優しくない。で、数字落ちた営業が何て言われるか知ってる?」
彼は少し笑った。
皮肉な、乾いた笑いだった。
「“使えない”だよ」
双葉は唇を噛んだ。
それはきっと、この会社では事実なのだろう。
結果がすべて。売った人間が正義。現場がどれだけ火を消していても、数字を作る側が強い。
でも。
「だからって、何してもいいわけじゃない」
「何してもいいなんて言ってない」
「言ってるのと同じだよ」
「同じじゃない。お前は極端なんだよ」
湊はテーブルに肘をつき、まっすぐ双葉を見る。
「俺は客を騙して金を巻き上げてるわけじゃない。導入したらちゃんと使えるサービスを売ってる。最終的に回るなら、入口で多少強めに背中を押すのは営業の仕事だ」
「“多少”じゃないよ」
「多少だよ」
「契約書の大事な条件を軽く言うのが?」
「全部正直に並べて、何件落としたら気が済むんだよ」
その瞬間、双葉の中で何かが切れた。
「落としてもいいでしょ」
自分でも驚くほど、はっきりした声だった。
湊の眉が動く。
「は?」
「取っちゃいけない契約なら、落としてもいいでしょ」
カフェスペースの空気が、しんと冷える。
離れた場所で食器のぶつかる小さな音がした。
双葉はもう止まれなかった。
「取ったあとにみんなが苦しむ契約なら、最初から取らないほうがいい。サポートも、事務も、現場も、顧客も、みんな困ってる。なのに神谷さんだけが“勝った”って顔してるの、おかしいよ」
湊の顔から、わずかに熱が消える。
「みんな、ね」
「そうだよ」
「お前も、その“みんな”に入るんだ」
言葉の輪郭が急に鋭くなった。
双葉はその変化に一瞬怯んだが、視線をそらさない。
「入るよ。だって実際、私が対応してる」
「仕事だろ」
「……え?」
「それ、お前の仕事じゃん」
あまりにあっさりと言われて、双葉は何を言われたのか理解するのに一拍遅れた。
「問い合わせ対応も、顧客フォローも、事務処理も。営業が取ってきた契約を回すのがお前らの仕事だろ」
お前ら。
その言い方に、双葉の胸の奥がひどく冷えた。
「それ、本気で言ってるの」
「本気だけど」
「私が、どんな気持ちで対応してるか考えたことある?」
「仕事に気持ち持ち込みすぎなんだよ」
双葉はしばらく声が出なかった。
目の前にいるのは、恋人の神谷湊のはずだった。
それなのに、今の彼の言葉には、こちらをひとりの人間として見ている気配がなかった。
ただ、自分の後ろを処理する役割として見ている。
恋人ですら、その程度の位置にしか置いていない。
「……私、ずっと庇ってた」
ようやく絞り出した声は、思った以上にかすれていた。
「神谷さんなら、ちゃんと分かってくれるかもしれないって。言えば止まってくれるかもしれないって。そう思ってた」
「大げさだな」
「大げさじゃない!」
今度こそ、はっきりと声が響いた。
湊がわずかに目を見開く。
「私は、神谷さんがただ忙しくて見えてないだけだと思いたかった。売ることしか考えてないんじゃなくて、その先のことまで抱える余裕がないだけだって。そう思いたかったの」
胸が苦しい。
でも、言葉を止めたら二度と本音が出てこない気がした。
「でも違った。見えてるんだよね。分かってるんだよね。その上で、“あとで回せばいい”“納得させればいい”って言ってる」
湊は何も言わない。
否定しないことが、何よりの答えだった。
「神谷さん、それ、最低だよ」
静かな声だった。
怒鳴るよりもずっと深く、二人の間を断ち切る声音だった。
湊は数秒黙ったあと、低く言った。
「言いたいことはそれだけ?」
「……まだある」
「何」
「やめて」
双葉は真正面から彼を見た。
「次の案件から、ちゃんと説明して。今までの分も、必要なら自分で顧客に説明し直して。サポートや事務に押しつけないで。もうやめて」
そこにはもう、曖昧さはなかった。
恋人としてのお願いでも、感情的な訴えでもない。
最後の確認だった。
湊は双葉を見返し、それからゆっくり首を横に振った。
「無理だ」
たった二文字だった。
それなのに、双葉の中の何かが完全に折れるには十分だった。
「……どうして」
「そのやり方じゃ取れないから」
「取れなくてもいいって言ってるでしょ」
「俺はよくない」
即答だった。
「今さらやり方変えて、数字落として、評価落として、周りに舐められて。それで“正しかったです”って満足する趣味ないんだよ」
双葉はもう、怒ることすらできなかった。
悲しいとか、苦しいとか、そういう感情より先に、ひどく静かな諦めが来ていた。
この人は、本当に選んでいるのだ。
私ではなく。
顧客でもなく。
信頼でもなく。
数字を。
「……そっか」
それしか言えなかった。
湊は少しだけ表情を緩めた。
こちらが折れたと思ったのだろう。いつものように、最後はなだめれば済むと思ったのかもしれない。
「朝倉、お前が心配してるのは分かるよ。でも現実ってそんな綺麗じゃない。お前は裏方だから、どうしても理想で見ちゃうんだろうけど」
その瞬間、双葉ははっきりと思った。
もう駄目だ、と。
彼は最後まで、自分の言葉がどれだけ人を傷つけているか分からない。
いや、分かっていても困らないから変えないのだ。
双葉は席を立った。
「もういい」
「機嫌悪くなるなって」
「機嫌の話じゃない」
「じゃあ何」
双葉はバッグを掴み、テーブルの上のスマホを取った。
そして、彼を見下ろす形で言った。
「もう、恋人としては庇えないってこと」
湊の顔が初めて、はっきりと変わった。
「……何それ」
「そのまま」
「庇うって、誰に?」
「少なくとも私自身には、もう無理」
湊が椅子を引いて立ち上がる。
「朝倉、待てよ」
「待たない」
「感情で変なこと言うな」
「感情じゃないって、何回言えば分かるの」
双葉の声は震えていた。
でも、その震えはもう迷いではなかった。
「私、ずっと神谷さんのこと、信じたかった。仕事では強引でも、根っこのところでちゃんとしてる人だって思ってた。でも違った。ちゃんとしてるかどうかより、自分が勝つかどうかしか見てない」
「……そこまで言う?」
「言うよ」
目の奥が熱くなる。
それでも涙はこぼさなかった。
「だって今、神谷さん、自分で選んだじゃん」
「何を」
「私が止めても、やめないって」
湊は何か言い返そうとして、結局言葉を切った。
その沈黙が、返事そのものだった。
双葉は踵を返した。
背中に彼の声が飛ぶ。
「朝倉!」
でも、振り返らない。
ここで振り返ったら、またどこかで「本当は違うかもしれない」と思ってしまう気がした。
ビルを出ると、夜の空気がひどく冷たかった。
駅へ向かう人の流れに混じって歩きながら、双葉はやっと一度だけ立ち止まる。
スマホが震えた。
湊からだ。
『言いすぎ。落ち着いたら連絡して』
――既読がついた。
その文を見た瞬間、笑いそうになった。
落ち着いていないのはどちらだろう。
もう一通来る。
『仕事と私情混ぜるなよ』
――それだけだった。
双葉は画面を見つめたまま、ゆっくり息を吐いた。
仕事と私情。
たぶん彼の中では、本当にその程度の話なのだ。
恋人が苦しんでいることすら、職場で感情的になっているだけに見える。
指先で画面を消し、そのままバッグにしまう。
家に着いてからも、涙は出なかった。
代わりに、ひどく静かな気持ちでパソコンを開く。
保存したファイル。
会議ログ。
契約書。
問い合わせ履歴。
社内メモ。
チャットの記録。
それらを一つのフォルダにまとめながら、双葉は思う。
もう、恋人じゃ止められない。
恋人である理由も、消えた。
お願いしても駄目だった。
怒っても、悲しんでも、届かなかった。
なら、別の立場で止めるしかない。
パソコンの中のフォルダ名を、双葉はゆっくり打ち込んだ。
『神谷案件_説明差異記録』。
そこで手は止まる。
――一度だけ。
送る相手の名前は、もう浮かんでいた。
まるで、もう逃げ場がないと告げるみたいなタイミングで、社内チャットの通知が跳ねる。
『明日、時間もらえますか』
――送信者は、黒川誠だった。
最後のラインでした。
ここで止まれたら、まだ別の結末もあったはずです。




