第4話 決定的な違和感
その夜、双葉は何度も自分に言い聞かせた。まだ誤解かもしれない。
切り取られた一部分だけを見て、決めつけるべきじゃない。
けれど朝になってパソコンを開いた瞬間、彼女はもう分かっていた。
自分がこれから確かめるのは違和感じゃない。
信じたくなかった事実そのものだ、と。
スマホの画面には、既読もつけないまま残った短い文が浮かんでいる。
『先帰る。今日は飯いい? ちょっと疲れた』
疲れている。
その一言が、ずっと胸の奥に引っかかっていた。
たしかに彼は疲れているのだろう。案件を取り、数字を追い、社内で期待され、次の商談へ走っている。
でも、その疲れの下に押し込まれているものは何だろう。
現場の混乱。
顧客の不信。
サポートの火消し。
事務の後処理。
それら全部を、自分以外の誰かに回した上で成り立っている「疲れ」なのではないか。
帰宅しても、頭はまったく切り替わらなかった。
風呂に入っても、ドライヤーの音の中でも、画面に残ったあの手書きメモが浮かぶ。
「神谷氏より “追加費用なし” と説明あり」
契約書には、条件次第で追加費用が発生すると明記されていた。
読み違いではない。
認識のズレでもない。
言ったことと、書いてあることが違う。
双葉は深夜一時を回ったころ、ベッドの中でようやく結論を出した。
確認しよう、と。
もう「信じたい」だけで済ませてはいけない。
――知ってしまった以上。
気のせいかもしれない、たまたまかもしれない、そんな逃げ道は、ここで一度閉じるしかなかった。
翌朝、双葉はいつもより三十分早く出社した。
フロアにはまだ数人しかいない。空調の音がやけに大きく聞こえる。
パソコンを立ち上げ、社内の共有フォルダを開く。
営業事務の権限で見られる範囲は限られているが、それでも契約書、提案メモ、スケジュール記録、顧客とのメール履歴くらいは辿れる。
まず昨夜のメールが来ていた案件から確認した。
契約書。
提案書。
社内チャットに残るやり取り。
打ち合わせ後に湊が投げていた簡単なメモ。
「先方、コスト感かなりシビア。追加費用NGで押してる」
その一文を見た瞬間、双葉の指が止まった。
追加費用NG。
なのに、契約書には条件付きで追加費用あり。
つまり湊は、先方がそこを気にしていると最初から知っていたことになる。
胸の奥がざわつく。
ただの言い間違いではない。
彼は最初から、相手が嫌がる部分を把握した上で、通る言い方に変えている。
双葉は次の案件を開いた。
そして、その次も。
似ている。
あまりにも、似すぎていた。
「運用負担は軽めで押せる」
「解約条件は先に出すと止まる」
「細かい制約は導入フェーズで整理」
どれも正式な報告書ではない。打ち合わせ直後に湊が社内へ流した短いメモや、自分用の下書きに近い文面だ。
けれど、そこにある言葉は十分だった。
“知らなかった”ではない。
“曖昧だった”でもない。
意図的だ。
双葉は浅く息を吐き、指先をこすった。冷えていた。
始業十分前になっても、まだ湊は来ていなかった。
その代わり、黒川がフロアの奥を通りかかる。資料を抱えたままの足取りで、一度だけ双葉のデスクに視線を向けた。
何かを言うべきか迷ったが、結局、双葉は口を開けなかった。
まだ確定していない。
いや、もうほとんど確定しているのかもしれない。
それでも、自分の口で「神谷さんがわざとやっています」と言うには、何かが足りなかった。
決定打。
否定の余地がなくなるもの。
始業後一時間ほどして、その“決定打”は思いがけない形で転がり込んできた。
「朝倉さん、ちょっといい?」
サポート部門の女性社員が、珍しく直接フロアまで来た。
顔は明らかに硬い。
「昨日のBreeze社の件なんだけど、顧客が“オンライン商談の録画を残してる”って言ってて」
「録画……?」
「うん。向こう、社内共有用で毎回録画してるらしくて。説明と契約条件が違うって、その該当部分の確認を求めてきてる」
双葉の背筋がぞくりとした。
録画。
つまり、口頭説明がそのまま残っている。
「そのデータ、もう来てますか」
「先に担当マネージャーに転送されてる。神谷さんにも確認入れると思うけど……たぶん揉める」
女性社員は小さく眉をひそめた。
「正直、こっちじゃもう庇いきれないよ。何て説明したのか知らないけど」
それだけ言って去っていく。
双葉は一瞬ためらったあと、サポート部門との共有メールを開いた。権限上、直接ファイルまでは見えない。だが案件番号は分かる。
Breeze社。
先月契約。オンライン商談あり。
双葉は予定表の記録を遡った。
日付、参加者、会議URL。
会社の標準ツールには自動文字起こし機能があり、録画の有無にかかわらず、一定期間だけテキストログが残ることがある。
検索欄に案件番号を打ち込む。
数秒の沈黙のあと、会議履歴が表示された。
残っていた。
双葉の喉が鳴る。
開くかどうか、一瞬だけ迷う。
けれど、もうここまで来て戻れるはずがなかった。
文字起こしログを開く。
長い会話の中から、条件説明のあたりだけを拾っていく。
相手担当者の発言、湊の返答、確認のやり取り。
そして、画面の中央に、その一文があった。
『追加で費用が発生するケースはありますか?』
その次の行に、湊の名前がついている。
『通常のご利用であれば、そこは気にしていただかなくて大丈夫です。少なくとも、御社の想定運用なら追加費用なしで進められます』
双葉は息を止めた。
契約書を開く。
該当条項を確認する。
外部連携設定、追加権限付与、個別要件対応については別途費用が発生する場合がある。
しかもBreeze社のヒアリングシートには、外部連携希望が明記されていた。
つまり湊は、追加費用が発生しうる前提を知った上で、「大丈夫」と言っている。
視界が少し揺れる。
さらに下へスクロールする。
別のやり取りが続いていた。
『途中で解約した場合の違約金などはありますか?』
また湊の発言。
『実質、そこはあまり気にしなくて大丈夫です。運用が合わなければ見直しも含めて柔軟に相談できます』
双葉は思わず契約書をめくった。
解約条項。
最低利用期間十二か月。途中解約時は残月分の五十パーセント相当を請求。
“実質、気にしなくて大丈夫”で済む内容ではない。
完全にアウトだった。
言い回しの問題ではない。
説明不足でもない。
明確に、相手の判断に影響する条件を軽く見せている。
しかも、ログの最後にはもっとひどい一文が残っていた。
『細かい条件は契約書にもありますが、実務ではこちらでかなり調整できますので、まずは導入をご判断いただくのが一番早いです』
調整できない。
少なくとも、契約書上はそんな裁量はない。
双葉は椅子にもたれ、目を閉じた。
頭の中で、これまでの会話が全部つながっていく。
「通るように話しただけ」
「最初から全部は言ってないだけ」
「契約取れなきゃゼロだろ」
軽く言っていた。
悪びれもせず。
それはつまり、こういうことだったのだ。
午前のフロアはいつも通り動いていた。電話が鳴り、キーボードが鳴り、誰かが笑う。
その音の中で双葉だけが、別の場所に取り残されたみたいだった。
湊は十一時前に戻ってきた。外回りの途中だったのか、片手にコンビニのコーヒーを持っている。
双葉は迷った。
だが、画面を閉じることができなかった。
「神谷さん」
「ん?」
「これ、見て」
湊は気軽な足取りのまま近づき、モニターを覗き込んだ。
最初の数行を見たところで、顔からわずかに色が消える。
「……どこから出したの、これ」
「会議ログ、残ってた」
「勝手に見た?」
「勝手に、じゃないよ。業務で確認できる範囲」
湊は周囲を一度だけ見回し、双葉のデスク脇に立ったまま声を落とした。
「閉じて」
「閉じない」
「朝倉」
その声音は低かった。怒鳴ってはいない。
でも、これまで双葉に向けたことのない硬さがあった。
「これ、完全に説明と違うよね」
「完全に、ではない」
「じゃあ何」
「切り取るなよ。あれだけで判断するな」
双葉は信じられない気持ちで彼を見た。
「前後があれば、“追加費用なしで進められます”って言っていいの?」
「通常運用ならって前置きしてる」
「でも相手、外部連携希望してた」
「その時点ではまだ固まってなかった」
「ヒアリングシートに書いてあったよ」
その一言で、湊の表情が止まる。
双葉は続けた。
「解約条件だって、“実質気にしなくていい”なんて、どう考えても言いすぎだよ」
「言いすぎじゃない。実際、最後まで使うケースがほとんどなんだから」
「そういう話じゃないでしょ」
双葉の声は思ったより大きくなっていた。
近くの席の何人かが、さりげない顔でこちらを見ないようにしている気配がある。
湊は小さく舌打ちし、さらに声を落とした。
「ここでやるな」
「じゃあどこならやるの」
「朝倉、お前いま感情で言ってる」
「感情じゃない。記録で見てる」
その瞬間、二人の間に鋭い沈黙が落ちた。
湊は双葉の画面を見つめ、それからようやく、いつもの笑顔も余裕もない顔で言った。
「……で?」
「え?」
「それで、何。俺を責めたいの?」
責めたい。
そうなのだろうか。
双葉には分からなかった。ただ、責める以前に、理解したかった。彼がどこまで分かってやっているのかを。
「神谷さん、これ、もし相手が本気で問題にしたら」
「その前に整理する」
「整理って、何を」
「現場で落としどころ作る。必要なら別条件出す。最終的に客が納得すればいい」
「納得しなかったら?」
「させるしかないだろ」
もう駄目だ、と双葉は思った。
彼は言葉の危うさを理解していないのではない。
理解した上で、最後に丸めればいいと考えている。
契約を取るまでの言葉と、そのあと現場に押しつける調整を、同じ一本の線でつないでいる。
「これ、初めてじゃないよね」
湊は答えなかった。
その沈黙だけで、十分だった。
「他の案件も、同じことしてるの」
「してる、の意味次第だな」
「ちゃんと答えて」
「朝倉」
彼はそこで、少しだけ疲れた顔をした。
優しい顔ではなかった。面倒な現実を説明する上司みたいな顔だった。
「理想論で取れるなら、誰も苦労しないんだよ」
双葉は何も言えなくなる。
それは開き直りだった。
正しさを知らない人の言葉ではない。知っていて、捨てる人の言葉だ。
そこへ、フロアの入り口から硬い足音が近づいてきた。
黒川だった。手にはタブレットがあり、その表情は昨日よりさらに冷えている。
「神谷、会議室空けろ」
湊がゆっくり振り返る。
「今度は何」
「Breeze社の録画、向こうが正式に提示してきた」
双葉の指先が震えた。
やはり来た。
黒川は続ける。
「サポートと法務確認を入れる。お前の説明内容、契約条項との齟齬が複数箇所ある」
フロアの空気がまた変わる。
今度はもう、聞こえないふりでは済まない種類の張りつめ方だった。
「複数箇所って、大げさだな」
「大げさじゃない」
黒川はタブレットを操作し、画面を湊へ向ける。
「“追加費用なしで進められる”」
「“実質、解約条件は気にしなくていい”」
「“かなり調整できる”」
一つずつ、はっきり読み上げる。
どれも、双葉がさっき見たものと同じだ。
「契約上、裏づけのない説明だ」
その言葉は低かった。だが、はっきりしていた。
双葉はそこで、初めて周囲の息遣いまで止まった気がした。
湊は数秒黙り、やがて薄く笑った。
「言葉尻だけ抜けば、そう見えるだろうな」
「言葉尻じゃない。相手の判断材料だ」
「最終的に契約書を読んで判押してるのは向こうだろ」
その瞬間、黒川の目がわずかに険しくなる。
「それ、本気で言ってるのか」
「事実だろ」
「営業が口頭で条件を軽く見せて判断を誘導して、あとから“契約書に書いてある”で済むと思ってるなら、認識が甘いどころじゃない」
甘いどころじゃない。
双葉の胸に、その言葉が深く刺さる。
黒川は双葉のほうを一瞬見た。画面に開いた会議ログ、契約書、ヒアリングシート。
それだけで事情を理解したのだろう。視線が戻る。
「神谷。これはもう、現場調整で吸える段階を越え始めてる」
「越えてない」
「越えてるから俺が来てる」
「だったらどうするんだよ」
「確認する。残ってる案件を全部」
湊の顔から、とうとう薄い笑みが消えた。
「……本気か」
「本気だ」
双葉はそのやり取りを聞きながら、奇妙なくらい静かになっていく自分に気づいていた。
もう、曖昧な余地がなかったからだ。
違和感ではない。
誤解でもない。
彼は、契約のために条件を軽く見せ、都合の悪い部分を後ろへ追いやっていた。しかも一件や二件ではない。
完全にアウトだった。
黒川は踵を返しかけ、最後に一言だけ残した。
「データは消すなよ。絶対に」
その言葉が、誰に向けたものだったのか。
双葉には分からなかった。
湊かもしれないし、自分かもしれない。
ただ、その瞬間に湊が見せた目だけは、初めて知らないものだった。
苛立ちでも、余裕でもない。
計算の顔だ。
まずい、と思ったのは同時だった。
湊は何も言わずに自席へ戻り、すぐにパソコンを開いた。
何をするつもりなのか、双葉には分からない。
でも、体が先に動いていた。
自分の画面に戻り、会議ログの該当部分を保存する。
契約書の条項ページをPDF化。
ヒアリングシート、顧客メール、問い合わせ履歴。
手が震えて、マウス操作を二度もミスした。
もし今ここで消えたら。
もし後で「そんな記録はなかった」と言われたら。
そのとき、自分は何を信じればいいのか分からなくなる。
保存先を指定し、ファイル名を打ち込む。
――手が、止まらなかった。
日付。案件名。説明差異。
ひとつ。
またひとつ。
胸の奥で、何かが決定的に変わっていく音がした。
もう恋人として「信じたい」と思うだけでは、守れないところまで来ている。
社内チャットには、神谷湊の短い文が残っていた。
『文脈抜きで見られると面倒だから、一旦こっちで整理する』。
双葉はモニターを見つめたまま、保存したばかりのファイルに手を置く。
見つけてしまった。
もう、恋人として目を逸らせる場所には戻れない。
戻るつもりも、なかった。
見えてしまったら終わりです。
ここから先は、「知らなかった頃」には戻れません。




