第3話 積み上がる負債
翌朝、共有アドレスに並んだ件名を見た瞬間、双葉の中から「たまたまかもしれない」という甘い逃げ道が消えた。
説明と違う。
想定と違う。
聞いていた条件と違う。
同じ種類の違和感が、別々の案件で、同じ男の名前の下に積み上がっていた。
パソコンを立ち上げ、共有アドレスを開いた瞬間、胸の奥が重く沈む。
件名はどれも似ている。
「ご説明内容の確認」
「導入条件について」
「事前説明との差異に関するご相談」
ただの質問、というには同じ匂いがしすぎていた。
双葉はコートも脱ぎきらないまま、一件ずつ中身を確認していく。
ひとつは昨日の顧客からの追加質問。
ひとつは先月契約した別会社からの問い合わせ。
もうひとつは、導入準備中の企業担当者からの不安混じりの連絡だった。
どれも、言っていることはほとんど同じだ。
事前に聞いていた運用負荷と違う。
想定より制約が多い。
契約時の説明では、そこまで厳しい条件はないように聞こえた。
双葉はマウスを握ったまま、しばらく動けなかった。
昨日までは、まだ「たまたま」が残っていた。
大型案件の直後で相手が神経質になっているだけかもしれない、と。
けれど、もう無理だった。
これは一件じゃない。
しかも同じ種類のズレが、別の案件でも起きている。
「朝倉さん、顔色悪くない?」
背後から声をかけてきたのは佐伯だった。紙コップのコーヒーを片手に、双葉のモニターを覗き込む。
「……また来てる」
「うわ、ほんとだ」
「これ、さすがに多くない?」
佐伯は苦笑いして、でもすぐにいつもの調子に戻った。
「まあ、神谷さん案件だし」
その言い方が軽すぎて、双葉は思わず振り向いた。
「それ、普通みたいに言わないで」
「え、いや……ごめん。でも実際、営業強い人って多少そういうのあるじゃん。取るときに前向きな言い方するっていうか」
「“多少”で済む話かな」
双葉の声は、自分でも思ったより硬かった。
佐伯は少し驚いた顔をして、それ以上は何も言わなかった。
始業から三十分遅れて、神谷湊はいつも通りの顔で出社した。
寝不足の気配も焦りもない。
むしろ機嫌がいい。
昨日の契約が社内チャットでも共有されたらしく、すでに若手から「おめでとうございます」とメッセージが飛んでいる。
「おはよう」
湊は双葉のデスク脇を通りながら軽くそう言った。
恋人に向ける朝の声というより、職場で気安い相手に投げる程度の温度だった。
「おはよう」
「例の件、落ち着いた?」
双葉は数秒だけ迷ってから、画面を彼に向けた。
「落ち着いてない。増えてる」
湊は立ったまま一覧を見た。
その目が一瞬だけ細くなる。
けれど次の瞬間には、もう大したことではないような顔に戻っていた。
「増えてるって言っても、まだこの程度だろ」
「この程度じゃないよ。先月の案件まで来てる」
「ならテンプレ整理して返せばいい」
「返せば終わる話じゃないって、昨日も言ったよね」
「朝倉」
湊は小さく息をついて、椅子の背に片手をかけた。
「お前、真面目すぎるんだよ」
「真面目とかじゃなくて――」
「こういうのは全部まともに受けると現場がもたない。先方が不安に思う余地を、こっちが丁寧に潰していけばいいだけ」
「でも、そもそも不安にさせる説明をしてるなら」
「そこまで言う?」
湊は少しだけ眉を上げた。
責められたことに驚いた、というより、そこまで本気で言うとは思わなかったという顔だった。
「俺が悪いって?」
双葉はすぐに答えられなかった。
恋人として見てきた彼と、いま目の前で話している営業の神谷湊が、少しずつ重ならなくなってきている。
「……悪いかどうかを決めるのは私じゃないよ」
「じゃあ、余計な心配しなくていい」
湊はそれだけ言って自席へ向かった。
まるで会話が終わったとでも言うように。
その背中を見送りながら、双葉は強く唇を噛む。
心配ではなく、確認したいだけなのに。
それすら彼には、非効率な感情論に見えているのだろうか。
午前十時過ぎ。
フロアの空気が少し変わったのは、一本の内線がきっかけだった。
サポート部門から営業一課へ、やや強い口調の問い合わせが入ったのだ。
双葉はたまたま近くにいて、その内容を断片的に聞いてしまう。
「だから、事前に“そのまま使える”って言われたらしいんですよ。でも現場確認したら追加設定必須で、今日の切り替え無理ですって」
「いや、でもそれは先方の環境次第で――」
「神谷さんがどう説明したか確認したいんです。こっち、現場で怒鳴られてるんで」
受話器を持っていた若手営業の顔がみるみる曇っていく。
周囲も何となく聞こえているのか、キーボードを打つ手がわずかに止まった。
神谷湊はそのとき部長席の前で別件の資料を見せていた。
内線を受けた若手が視線を送ると、湊は面倒そうに近づいてくる。
「代わります」
受話器を取った声には、もう営業用のやわらかさが乗っていた。
「神谷です。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。ええ、状況は理解しました。……はい。ただ、当初のご案内としては“通常環境であれば問題ない”というお話でして……ええ、ええ」
双葉はその場で凍りついた。
まただ、と思った。
言っていることは謝罪なのに、実際には何も引き取っていない。
相手をなだめながら、責任の輪郭だけを曖昧にしていく。
湊は五分ほどで電話を切ると、受話器を置いた。
「一旦、現場側に追加対応してもらうことになった」
「神谷さん、それサポートかなり怒ってましたよ」
若手が恐る恐る言うと、湊は肩をすくめた。
「怒るのは仕事だからだろ。向こうも落としどころ探してるだけだよ」
「でも、説明と違うって――」
「違わない。想定条件がズレただけだろ」
その一言で、話は打ち切られた。
若手はそれ以上言えず、自席に戻る。
フロアに流れる空気は、ぎこちなく静かだった。
誰も「おかしい」とは言わない。
ただ、聞かなかったことにしようとしている気配だけがあった。
昼前、黒川が営業一課にやって来た。
資料を届けるふりのようにも見えたが、真っ直ぐ湊の席に向かう。
「少しいいか」
「いま?」
「いま」
湊は舌打ちこそしなかったが、露骨に面倒そうな顔をした。
それでも席を立ち、フロアの隅の打ち合わせスペースへ移動する。
双葉は視線を向けまいとしたが、どうしても耳がそちらへ向いてしまった。
「最近、お前の案件で照会が増えてる」
黒川の声は低く、抑えられている。
だからこそ、余計に逃げ場がなかった。
「またそれ?」
「また、じゃない。件数が積み上がってる」
「売れてるんだから当たり前だろ」
「当たり前で済ませるな」
初めて、黒川の声にわずかな硬さが混じった。
「神谷。お前、契約を取るために説明を削ってるだろ」
双葉の指先が止まる。
フロアの何人かも、聞こえないふりをしたまま集中力を失っていた。
湊は数秒黙ったあと、笑った。
否定する笑いではなく、呆れたような笑いだった。
「削ってるんじゃない。順番を考えてるだけだよ」
「客に不利な条件を後ろに回すのを、世間ではそう言わない」
「じゃあ何て言うんだよ」
「案件によっては、虚偽説明だ」
その言葉が落ちた瞬間、空気が完全に止まった。
誰も顔を上げない。
だが全員、聞いていた。
湊の目が、初めて少しだけ冷たくなる。
「言葉選べよ、黒川」
「選んだ上で言ってる」
「証拠でもあるのか」
「集め始めてる」
短い沈黙。
それは威圧でも挑発でもなく、ただ事実だけを置いた沈黙だった。
黒川は続ける。
「いまならまだ修正できる。今後の案件で説明を改めろ。既存案件も、認識差が出てる部分は営業側から先に整理しろ」
「は?」
「これ以上増えたら、現場じゃ吸収しきれない。顧客にも社内にも、いずれ返ってくる」
湊は鼻で笑った。
「大げさだな。たかが数件の照会で」
「数件で済んでるうちに止まれって言ってる」
その一言に、双葉は胸を衝かれた。
黒川は怒鳴らない。責め立てもしない。
ただ、まだ引き返せると言っている。
なのに湊は、その手を取らない。
「悪いけど、俺はお前みたいに手順守って負ける仕事してないんだよ」
「勝ってるつもりか?」
「少なくとも数字は出してる」
「数字のために信用削ってたら、後で全部赤字になる」
「その後を回すのが会社だろ」
あまりにもあっさり言われて、双葉は息を呑んだ。
会社が回す。
現場が回す。
事務が返す。
サポートが頭を下げる。
彼の中では、もうそれが前提になっている。
黒川はしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。
「……分かった」
「話は終わり?」
「いや。警告はした」
その声音に、湊がほんの少しだけ眉を寄せる。
「次は、庇えない」
黒川はそれだけ残して席を離れた。
打ち合わせスペースに取り残された湊は、一瞬だけその背中を睨んだが、すぐに何事もなかったように自席へ戻った。
「気にするなよ」
通りがかりに、双葉へそう言う。
「黒川は融通きかないだけだから」
けれど双葉は頷けなかった。
融通の話ではない。
いまの会話で、はっきりしてしまったからだ。
湊は気づいている。
自分の説明がどこを削っているのか、何を後回しにしているのか。
その上で、止めない。
午後、部長が営業一課を軽く集めた。
話題はもちろん、今月の進捗と大型案件の共有――のはずだったが、途中でこんな一言が混ざった。
「最近、導入後の細かい問い合わせが少し増えてるらしいけど、まあ、売れてる証拠でもあるからな。現場は連携してうまく捌いてくれ」
誰も何も言わない。
それで終わりだった。
双葉は、むしろその軽さにぞっとした。
問題が見えていないんじゃない。
見えていて、数字を優先している。
火種は社内にもある。
しかも、見つけた誰かがすぐ消してくれるわけではない。
定時後、フロアの人が少なくなったころ。
双葉は一人で問い合わせ履歴を整理していた。案件名、日付、顧客の文面、対応内容。
打ち込めば打ち込むほど、同じ種類のズレが並んでいく。
画面の端に、小さな影が落ちた。
黒川だった。
「まだ残ってたのか」
「黒川さんも」
「少し確認したいものがあって」
そこで会話が切れる。
双葉は迷った。
けれど、もう知らないふりをするのは難しかった。
「……神谷さんの案件、本当に増えてるんですか」
黒川はすぐには答えなかった。
数秒考えてから、必要最低限だけを言う。
「照会件数だけなら、まだ決定打じゃない」
「でも」
「でも、傾向は出てる」
双葉の喉が小さく動く。
「やっぱり」
「朝倉さん」
黒川の視線はまっすぐだった。
「君が無理に何かする必要はない。ただ、記録だけは消さないでくれ」
それは協力要請というより、最後の防波堤を確かめる言葉に近かった。
「……分かりました」
双葉がそう答えると、黒川は短く頷いて去っていく。
その背中を見送ったあと、双葉は自分の画面に目を落とした。
問い合わせ一覧。
対応履歴。
社内チャットに残る、湊の軽い言い回し。
ひとつひとつは小さい。
けれど小さいまま、確実に積み上がっている。
負債だ、と思った。
お金ではなく、信用の。
今はまだ数字の陰に隠れているだけの。
そのとき、スマホが震えた。
湊からのメッセージだった。
『先帰る。今日は飯いい? ちょっと疲れた』
たったそれだけの文。
昨日までなら、いつものことだと思えたはずだった。
でも今は違う。
疲れているのは誰なのか、と、そんな言葉が喉元までせり上がる。
返信できないまま画面を見つめていると、もう一通、共有アドレスに新しいメールが届いた。
差出人は、昨日とは別の会社。
件名は、もっと短い。
『ご契約時の説明について』
双葉はそのメールを開く。
本文の下には、先方担当者が添付した打ち合わせメモの写真があった。
添付された打ち合わせメモの写真には、はっきりと手書きで残されていた。「神谷氏より “追加費用なし” と説明あり」
――太いペンで、二重線まで引かれている。
契約書には、そんな記載はどこにもない。
双葉は画面を見つめたまま、初めて思う。
これは本当に、放っておいていいことなのだろうか。
――もう、知らなかった頃には戻れない。
たぶんこのあたりで、湊を「嫌いになりきれない人」と「もう無理な人」で分かれたと思います。
どっちでも正解です。




