第2話 小さな嘘
最初の確認メールは、まだ“よくある問い合わせ”として処理できた。
二通目、三通目と続いたとき、朝倉双葉はようやく理解する。
あれは契約直後の不安なんかじゃない。
神谷湊が置いてきたものが、別の形で戻ってきているのだと。
「……神谷さん」
双葉の声は小さかった。
けれど、すぐ近くにいた湊には十分届いたらしい。椅子を半分だけ回して、こちらを見る。
「なに?」
「さっきのお客さんから、確認メールが来てる」
湊は一瞬だけ眉を動かしたが、驚いた様子はなかった。
むしろ、ああ来たか、という程度の顔だった。
「どんな内容?」
双葉はモニターを見たまま、乾いた唇を軽く舐めた。
「説明と契約書の記載が違う気がする、って。運用負担のことと、契約条件のところ」
「なら定型で返して。詳細は契約書準拠です、運用面は導入支援でフォローします、って」
「でも、それで納得するかな」
「するように返すんだよ」
あまりにも自然に言われて、双葉は一瞬だけ言葉を失った。
まるで、これはいつもの流れだとでも言うような口ぶりだった。
「神谷さん、これ……」
「朝倉」
湊はそこで声を重ねた。笑ってはいないが、苛立っているほどでもない。ただ、説明するのも面倒だと言いたげな、軽い遮り方だった。
「契約した直後の客って、急に細かいところが気になるんだよ。不安になるからな。だから確認してくる。それ自体は普通」
「普通、なのかな」
「普通だよ。いちいちそんな顔しないで」
言うだけ言って、湊はもう次のメールを開いていた。
大型案件を決めた熱のまま、別の商談予定を確認している。まるで、さっきの確認メールなど、もう処理済みの小さな事務作業でしかないみたいに。
双葉はゆっくり息を吐き、返信画面を開いた。
契約書に基づくご案内になります。導入初期の運用については別途サポートいたします――。
指は動くのに、胸の奥が冷えたまま戻らない。
その日の夕方、問い合わせは一通では終わらなかった。
最初の顧客から、さらに二通届いた。
「想定していた運用と違う部分があり、現場で対応が止まっています」
「初期設定にかかる工数を、事前には認識できていませんでした」
――どちらも丁寧な文面なのに、責める気配だけが隠しきれていない。
文面は丁寧だったが、行間に不信が滲んでいた。
双葉が対応記録を入力していると、隣の席の佐伯が小さく顔を寄せてきた。
「また神谷案件?」
「……うん」
「やっぱりか」
思わず双葉は手を止めた。
「やっぱり、って?」
「いや、別に大したことじゃないけど」
佐伯はそう前置きしてから、声を落とした。
「先月もさ、似たのあったんだよ。説明と実際の条件がちょっとズレてる、みたいな問い合わせ。結局サポート側で丸めて終わらせたけど」
「そんなの、聞いてない」
「共有するほど大ごとにしなかったからじゃない? 現場あるあるっていうか」
あるある。
その言葉に、双葉はひどく嫌な気分になった。
現場あるあるで済ませていいことなんだろうか。
契約前の説明と、実際の条件が違う。
それは単なる認識齟齬で片づけていいものなのか。
「朝倉さん?」
「……あ、ごめん」
佐伯は肩をすくめて自分の席に戻っていった。
モニターには、未処理の問い合わせがまだ残っている。双葉は一つずつ開き、言葉を選びながら返していくしかなかった。
その間、湊はほとんど席にいなかった。
部長に呼ばれ、次の案件の打ち合わせに入り、途中で若手に営業トークのコツを話し、フロアを忙しそうに歩き回る。誰が見ても、売れる営業の姿だった。
ただ、その背中を見ながら双葉は考えてしまう。
あの人は、本当に分かっているんだろうか。
自分が取ってきた契約のあとで、誰が何を片づけているのか。
定時を少し過ぎた頃、ようやく湊がデスクに戻ってきた。
ネクタイを緩めながら、双葉の画面をちらりと見る。
「まだやってたの?」
「まだって……今日の問い合わせ、増えてるよ」
「そんな顔するほどの件数じゃないだろ」
「件数の問題じゃないよ。内容が同じなの」
「同じ?」
「説明されたことと違う、って」
湊は椅子の背にもたれ、面倒そうに天井を見た。
「朝倉、それ全部まともに受けすぎ」
「まともに受けるよ。お客さんからの問い合わせなんだから」
「不安になってるだけだって。導入前はよくある。サポートが丁寧に返せば落ち着くから」
「でも、もし本当に説明が足りてなかったら?」
双葉がそう言うと、湊はゆっくり視線を戻した。
「足りてないんじゃない。最初から全部は言ってないだけだよ」
――一瞬だけ、言い切る前に間があった。
さらりと言われて、双葉は息を止めた。
「……それ、同じじゃない?」
「全然違う」
湊は机の上のペンを指先で転がしながら、当たり前のことを教えるみたいに言った。
「商談ってさ、相手が飲める情報から出すんだよ。最初から細かい制約もリスクも全部並べたら、決まるものも決まらない。重要なのは、導入してもらうこと。走り出してから調整すればいい」
「でも、それって」
「取れてない提案に、正しさの点数なんてつかないだろ。通って初めて意味がある」
またその言葉だった。
数字を前にしたとき、湊の中では他の全部が軽くなる。
双葉は唇を引き結んだ。
何か言わなければいけない気がした。けれど、恋人として責めたいのか、事務として困っているのか、自分でも整理できない。
そのとき、背後から低い声が落ちた。
「神谷」
二人が振り返ると、黒川誠が立っていた。
いつもの無表情に近い顔で、手には数枚の紙を持っている。
「この前のApex商事の契約、導入条件の確認でサポートから照会が来てる。お前、先方にどう説明した?」
空気がわずかに張った。
湊はすぐに表情を崩さないまま答える。
「普通に説明したよ。何?」
「普通、って何だ」
「必要なことは伝えたって意味」
「必要なこと、ね」
黒川は手元の紙を一枚見た。
そこには何かの問い合わせ履歴が印字されているらしい。
「“連携は問題なく進められる”と説明した記録がある。でも実際は追加開発前提だ。現場が揉めてる」
「その案件、もう整理ついてるだろ」
「整理したのは現場だ」
黒川の声に感情はなかった。だからこそ、余計に冷たく聞こえた。
「神谷、お前の案件、最近こういう照会が続いてる」
双葉の指先が強ばる。
続いてる。
その一言が、胸の中で重く沈んだ。
湊は鼻で笑った。
「続いてるってほどじゃないだろ。たまたまだよ」
「たまたまで同じ種類の照会が重なるか?」
「売ってる数が多いから目立つだけ」
「便利な言い訳だな」
黒川はそれだけ言うと、湊ではなく双葉のモニターに目を向けた。開きっぱなしの問い合わせ一覧。似た件名が並んでいるのを確認したのか、視線が一瞬だけ鋭くなる。
「朝倉さん。今日来た分、記録残してる?」
「……はい」
「消さずにそのまま管理しておいて」
湊が眉をひそめた。
「おい、そこまで大げさにする話か?」
「大げさかどうかは、件数で決める」
「暇なんだな、黒川」
「お前ほどじゃない」
それだけ交わして、黒川は踵を返した。
去っていく背中を見送りながら、双葉は何も言えなかった。
ただ一つだけ、はっきりしたことがある。
自分が感じていた違和感は、気のせいではなかった。
社内のどこかで、もう気づいている人がいる。
見過ごせないと思っている人がいる。
「気にしなくていいよ」
湊が軽く言った。
「黒川は昔からああいうやつだから。数字取れないやつほど、手順で殴ってくる」
双葉はすぐには頷けなかった。
画面には未処理の問い合わせが並び、そのどれもが「確認」「相違」「想定と違う」という言葉を含んでいる。
火は、まだ小さい。
けれど確かに、もうついていた。
双葉はその夜、全ての対応履歴を閉じたあと、ふと思い立って共有フォルダを開いた。
神谷湊が今月受注した案件一覧。契約書。提案メモ。社内チャットの断片。
いつもなら、事務作業の一部として流していたものばかりだ。
けれど今日は、違って見えた。
似た言い回しが、案件をまたいで残っている。
『問題なく進められます』
『柔軟に対応できます』
『実運用で困ることはありません』
そのどれもが、契約書の文面より少しだけ軽く、少しだけ都合がよかった。
背中にぞわりと寒気が走る。
もしこれが一件じゃないなら。
もしこれが、たまたまじゃないなら。
双葉が顔を上げたとき、フロアにはもうほとんど人がいなかった。
だが少し離れた席で、黒川だけがまだパソコンの画面を見ていた。
その視線が、ふとこちらに向く。
何も言わない。
けれど、その沈黙は問いかけに近かった。
――君も、気づいたのか。
双葉は息を呑む。
そして自分の画面に視線を戻した。
問い合わせ一覧の未読表示がまたひとつ増えた。
件名は短く、事務的だった。
『ご説明内容について再確認のお願い』
それを見た瞬間、双葉ははっきり悟る。
これは後処理じゃない。
もう、始まっている。
まだ引き返せます。
この時点なら、誰も傷つかずに済むルートもありました。




