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社内恋人の違法営業に気づいたので、私は証拠を揃えて告発した  作者: そらのことのは


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第1話 契約の魔術師

 会議室には、契約が落ちる直前の沈黙があった。

 断る理由を探している相手と、押し切る瞬間を待っている自分。

 その境目に生まれる、薄く張った膜みたいな空気を、神谷湊はよく知っていた。そして、その膜を破る言葉も。


 相手が欲しがっているのは、正確すぎる説明じゃない。

 決断するための、都合のいい確信だ。


 湊はテーブルの上に広げた提案書を指先で整え、柔らかく笑った。

「ご安心ください。今回の運用フローなら、御社の現場負担はほとんど増えません。既存システムとの連携も問題なく進められますし、導入後の調整も柔軟に対応できます」


 向かいに座る総務部長が、ようやく肩の力を抜いた。五十代半ば、慎重そのものという顔つきの男だ。ここまで来るのに三度の打ち合わせと二週間の保留を挟んでいる。ここで条件を並べて、自滅する営業は多い。


 だが湊は、違った。


「もちろん、最終的な条件は契約書に沿ってご確認いただく形になります。ただ、実運用の面で大きな支障が出ることはまずありません。今月中にご決裁いただければ、初期設定の優先枠も確保できます」


 言い切ると同時に、相手の迷いが消えるのが分かった。

 この瞬間がたまらない、と湊は思う。


 商品を売っている感覚ではない。

 相手の躊躇を剥がし、最後の一歩を踏ませる。勝負に勝つ感覚に近かった。


「……分かりました。では、この内容で進めましょう」


 総務部長がそう言って契約書に手を伸ばした瞬間、湊は胸の内で小さく息をついた。

 取った。


 今月最大の案件だ。これで営業一課の数字は跳ねる。個人成績でもトップはほぼ確定。部長が朝の会議でちらつかせていたインセンティブも、評価面談の材料も、全部こちらに転がり込んでくる。


「ありがとうございます。必ずご満足いただける形で進めます」


 湊は頭を下げた。声色は丁寧に、表情は誠実に。

 こういうのは演技ではない。相手が安心して判を押すまでが営業の仕事だ。押したあとに細かい話が増えるのは、まあ、現場で回せばいい。


 会議室を出た瞬間、背中に張りついていた緊張がほどけた。

 廊下の端で待っていた朝倉双葉が、湊の顔を見るなりほっと息をつく。


「決まった?」


「見れば分かるだろ」


 湊が契約書の入った封筒を軽く持ち上げると、双葉は「すごい」と小さく笑った。営業事務として資料準備や日程調整を支えてくれた彼女にとっても、大きな案件だったはずだ。


 けれど、その笑顔は少しだけ曇っていた。


「あのさ……ひとつだけ確認していい?」


「なに?」


「さっき、“運用負担はほとんど増えない”って言ってたけど、このプランって、実際は管理画面の切り替えで最初の一か月かなり手間かかるよね」


 双葉の声は責める調子ではなく、本当に確認したいだけという響きだった。

 湊はエレベーターのボタンを押しながら肩をすくめる。


「最初だけだろ。慣れれば回る」


「でも、“ほとんど増えません”は強すぎない?」


「強く言わなきゃ決まらないよ」


 ちょうどエレベーターが開いた。二人で乗り込む。鏡みたいに磨かれた内壁に、スーツ姿の自分たちが並んで映る。


 双葉はなおも言葉を選んでいた。


「あと、“柔軟に調整できます”って……中途解約の条件、けっこう厳しかったよね」


「あるけど、そこまで行くケースはほぼない」


「でも、先に伝えないと後で揉めるかも」


 湊はそこでようやく彼女を見た。

 真面目だな、と思う。そこが双葉のいいところでもあり、面倒なところでもあった。


「朝倉。営業ってさ、正しいことを順番に並べる仕事じゃないんだよ」


「……うん」


「契約を取る仕事だ」


 双葉は黙った。

 エレベーターの階数表示が一つずつ下がっていく。


 本当は、彼女だって分かっているはずだ。いくら商品が良くても、いくら提案書を綺麗に作っても、最後に相手を決断させられなければ全部ゼロだと。現場は理屈だけでは回らない。多少丸めることも、言い方を整えることもある。それをいちいち「嘘」だの「危ない」だの言っていたら、数字なんて作れない。


 会社に戻ると、営業フロアは午後のざわめきに満ちていた。

 湊が封筒を持って入っただけで、何人かが気づく。


「神谷さん、もしかして例のとこ決めたんすか?」


「マジで? あれ今月の本命じゃん」


「さすがエース」


 あっという間に人が寄ってきた。部長まで席を立ち、「やったな神谷!」と満面の笑みで肩を叩いてくる。


「いやあ、やっぱり最後はお前なんだよ。数字を作るやつが正義だ。みんな、神谷を見習えよ」


 フロアに笑いが起きた。

 湊も笑い返しながら、心のどこかで当然だと思っていた。


 結果を出せば許される。

 いや、結果を出すからこそ、正しい。


 その輪の少し外で、双葉だけが曖昧に拍手していた。視線が合う。彼女は何か言いたそうだったが、結局、言わなかった。


 代わりに、コピー機の横で書類を受け取っていた黒川誠がちらりとこちらを見た。同期だが、営業畑よりコンプライアンス寄りの部署に近く、数字より手順と責任を重く見る男だ。表情らしい表情もなく、契約書の控えに目を落とし、指を止めた。それから湊を見た。


 ほんの一瞬のことだったが、祝福の空気の中では妙に冷たく見えた。


 まあいい、と湊は思った。――ほんの一瞬だけ、引っかかりを無視して。

 数字を持っていないやつほど、綺麗ごとを言う。


 周囲の熱が少し引いた頃、双葉が湊のデスクのそばまで来た。


「ねえ、本当に大丈夫?」


「まだ言うの?」


「だって、今日の説明……ちょっと盛りすぎに聞こえたから」


「盛ってない。通るように話しただけ」


「あとで問い合わせ来るの、私たちだよ」


 湊は椅子に腰を下ろし、ネクタイを少し緩めた。大型契約を決めたあとの疲労は、妙に心地いい。

 双葉の声だけが、その余韻に水を差していた。


「そのときはそのときだろ。契約取れなきゃ意味ないんだから」


 双葉はすぐに返事をしなかった。

 彼女の沈黙は、怒りよりも失望に近い色を帯びていたが、湊はそこまで気にしない。恋人としての小言なら、帰りに食事でもすればいくらでも機嫌は直る。


 デスクにスマホを置き、次の案件のスケジュールを確認しようとしたとき、フロアのどこかで小さな通知音が鳴った。


 双葉のパソコンだった。


 彼女は反射的に画面を覗き込み、次の瞬間、表情を止めた。


「……どうした?」


 湊が軽く声をかけても、双葉はすぐに答えない。

 白いモニターの光が、その横顔だけを冷たく照らしていた。


 件名は、簡潔だった。


 『ご契約内容の確認(至急)』


 差出人は、さっきの総務部長。

 本文の冒頭には、こうあった。


 『先ほど神谷様よりご説明いただいた内容と、契約書の記載に相違があるように思われ、社内確認が止まっております。ご確認いただけますでしょうか。』


 双葉の指先が、わずかに震える。


 背後ではまだ、湊が同僚に「今月はもう決まりだろ」と笑っていた。

 勝ったあとの男の、無防備な声だった。


 双葉はゆっくりと振り返る。

 その視線の先で、神谷湊は自分が何を始めたのか、まだ何ひとつ分かっていなかった。


 その日、神谷湊は今月いちばんの契約を取った。

 誰もが、勝ったと思っていた。


 朝倉双葉のモニターに届いた一本の確認メールだけが、その勝利の中に、もう取り返しのつかない綻びが走っていることを知っていた。

ここから始まります。

「なんかおかしい」と思った人は、その感覚を大事にしてください。たぶん外れてません。

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