第8話 信頼がすべてだった
神谷湊への処分が正式に決まった金曜の午後、営業フロアは妙に静かだった。
誰も大声では何も言わない。
ただ、かつて中心にいた男が、自分の机から私物を段ボールに詰めていく音だけが、やけに現実的に響いていた。
勝者の顔で契約を持ち帰っていた背中は、もうどこにもなかった。
表向きの文面は淡々としている。
「契約説明における重大な不備および社内規定違反により、諭旨退職」
その文面の短さが、かえって残酷だった。
顧客側への謝罪と条件見直し。
一部案件の返金対応。
サポートと導入現場への追加負荷。
社内監査。
部長の管理責任問題。
湊一人が消えれば終わる話では、もうなくなっていた。
処分が出た日のフロアは静かだった。
誰も、大きな声では何も言わない。
ただ、午後のある時間に、湊が自席の引き出しを整理し始めたときだけ、空気がほんの少しだけ揺れた。
段ボールひとつ分にも満たない私物。
文房具、営業本、使い古した名刺入れ、コーヒーのドリップバッグ。
それを黙々と詰めていく姿は、信じられないほど普通だった。
双葉は見ないようにしていた。
でも視界の端に入ってしまう。
あれほどフロアの中心にいた人が、今は誰にも声をかけられずに荷物をまとめている。
当然の結果だった。
でも、その当然さは決して気持ちのいいものではなかった。
湊は最後まで、双葉のほうを見なかった。
双葉もまた、見なかった。
ただ一度だけ、段ボールを抱えて出口へ向かう足音が、自分の席の近くで止まった気がした。
けれど顔は上げなかった。
数秒後、その足音はまた動き出し、そのまま遠ざかっていった。
それで終わりだった。
その夜、双葉はひとりで駅まで歩いた。
春の終わりの風はまだ少し冷たく、コートがなくても歩けるのに、胸の内側だけがひどく冷えている。
スマホには何の通知もない。
湊からの最後のメッセージは、あの「もう連絡しない」で止まったままだ。
終わった。
そう思っても、すぐに解放感が来るわけではない。
むしろ、何か大きなものを切り落としたあとみたいな鈍い痛みが残る。
好きだった時間まで全部が嘘になるわけじゃない。
でも、その好きだった時間を抱えたまま、もう戻れない場所へ来てしまった。
翌週、双葉は異動願を出した。
逃げたかったわけではない。
けれど、あの席に座り続けていれば、自分の中の何かまで鈍る気がした。
黒川は書類を見て、少しだけ眉を動かした。
「決めたのか」
「はい」
「後悔しないか」
双葉は少し考えてから答えた。
「するかもしれません。でも、ここに残っても、たぶん違う意味で後悔するので」
黒川は頷いた。
それ以上、余計な慰めは言わなかった。
結局、双葉は一課を離れ、カスタマーサポート寄りの部署へ移ることになった。
以前より地味な仕事だと見る人もいるだろう。数字にも華やかさにも遠い。
でも、双葉にはそのほうがよかった。
誰かが契約を取ったあとで困らないようにする。
最初から、きちんと届く言葉で支える。
それを仕事にしたいと思った。
しばらくして、風の噂のように湊の話を聞いた。
大手や同業には戻れず、小さな営業代行会社に入ったらしい、と。
本当かどうかは分からない。確かめようとも思わなかった。
ただ一度だけ、三か月後、偶然その姿を見かけた。
取引先へ向かう途中、駅前の小さなオフィスビルの前。
スーツ姿の男が、年配の男性に何か説明していた。
少し痩せて見えた。声はここまでは届かない。
けれど、以前みたいな勢いのある身振りではなかった。
双葉は足を止めない。
立ち止まっても、もうかける言葉はないからだ。
ただ、すれ違いざまに一瞬だけ、湊の横顔が見えた。
こちらには気づかなかった。
その顔に何を見たのか、双葉はうまく言えなかった。
後悔だったのか、疲労だったのか。
それとももう、ただの他人の顔だったのか。
その日の帰り道、双葉はコンビニで小さな花を買った。
理由は自分でも分からない。
白い、名前も知らない季節の花を一本だけ。
グラスに挿した白い花が、夜の気配の中でかすかに揺れている。
苦いものはまだ残っていた。
たぶん簡単には消えない。
好きだった人が、好きだったままでは終われなかったことも、失った時間も、もう戻らない。
それでも双葉は、そっと息を吐く。
戻らないものは、戻らない。
それでも双葉は、もう一度だけ息を吐いた。
スカッとはしない終わりです。
でも、これがたぶん一番現実に近い。
ここまで読んでくれた人へ。
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その一つで、この話がもう少し遠くまで届きます。




