第94話 水無月の外
研究棟を出たところで、冬真は駐車場の自販機へ向かった。
「帰るぞ」
御厨が後ろから言う。
「二分だけ」
「二分な」
水のボタンを押す。
ペットボトルを取ろうとした手が、少し震えていた。
「人だったかもしれない」
「そうだな」
「八年前、誰かが俺を選んだ」
「かもしれない」
「なんで」
「知らねえ」
御厨は即答した。
冬真はキャップを開ける。
「もうちょっと何かない?」
「今分からんもんを今答えにするな」
「新田課長みたい」
「最悪だな」
「本人に言います」
「やめろ」
少し笑えた。
駐車場のアスファルトは昼の熱をまだ持っている。水無月ホテルを思い出す時はいつも寒いのに、今日は靴底から熱が上がってきた。
ここは八年前ではない。
「もし、その人が生きてたら」
冬真は水を飲んだ。
「会いたいのか、自分でも分かんない」
「会ってから決めろ」
「生きてるかも分からない」
「それも調べろ」
「今日ほんと雑だな」
「答えのないことに上手いこと言う趣味ねえんだよ」
御厨は腕時計を見る。
「あと三十秒」
「数えてる?」
「お前が二分って言った」
冬真は空のボトルをゴミ箱へ投げた。今度はちゃんと入る。
「行きます」
「二分ちょうど」
車へ戻ってから、冬真は母とのトーク画面を開いた。
水無月ホテルの話を、家ではほとんどしない。
事故のあと、母は病院と警察と学校を何度も往復した。冬真が覚えていない時間まで、母は生きている。
電話ボタンに指を置く。
やめた。
代わりに打つ。
《今度の日曜、飯行く?》
返事はすぐだった。
《珍しい。何かあった?》
《別に》
《怪しい》
冬真は笑う。
御厨が助手席から画面を覗きかけた。
「彼女?」
「母親」
「つまんねえ」
「何期待してんですか」
冬真はスマホを伏せた。
八年前の答えは欲しい。
でも、今日の生活まで八年前へ持っていかれる気はなかった。
車が研究棟を出る。
バックミラーの中で、建物が小さくなっていった。




