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第93話 黒い腕時計

「終端操作員?」


「白昼断層前、存在しないはずだった職種です」


 鷹取は古い腕時計を一つ出した。


 黒い樹脂バンド。

 画面のない文字盤。


 冬真の記憶にあるものと同じだった。


「これを持ってた人間が、水無月ホテルにいた」


「可能性はあります」


「誰」


「記録が欠けています」


「またそれ」


「私も嫌いですよ、その答え」


 鷹取は腕時計をテーブルへ置く。


「これは異常を切る装置ではありません。終端候補を現場に固定するための認証端末です」


「じゃあ、俺を外に出した人は」


「怪異ではなく、人だったかもしれない」


 八年間、冬真は顔のない救助者を異常側の存在だと思っていた。


 でも違うなら。


 あの夜、誰かが意図的に出口を作った。


 そして冬真だけを先に出した。


「なんで俺だった」


 鷹取は答えなかった。


 その沈黙だけは、知らないからではない気がした。



 腕時計を手に取ると、樹脂は驚くほど軽かった。冬真の記憶では、十六歳の自分の腕を掴んだ手首にこれがあった。雨に濡れ、非常灯の赤を反射していた。


 匂いまで一瞬戻る。焦げたカーペット。消毒液。誰かの血。


「久世さん」


 月島の声で今へ戻った。


「大丈夫」


「聞いてません」


「じゃあ言わなきゃよかった」


 鷹取は冬真の反応を見ている。観察されていると分かると、逆に冷静になれた。


「これ、誰に配られてた」


「登録上は六名。ただし一台が未返却」


「未返却者の名前」


 鷹取がファイルを開く。


 そこだけ、黒塗りだった。


 国家機密ではない。元データそのものが欠けている。


 誰かが最初から、名前を残さなかった。


 古い腕時計の裏蓋には、小さな番号が刻まれていた。JP-TM-06。鷹取が端末へ入力すると、登録画面が一瞬だけ開く。


 所有者欄は空白。


 最後の使用記録は二〇一八年二月、水無月ホテル。


 冬真の喉が乾いた。


「場所まで一致してる」


「はい」


「この人、俺を出した」


「可能性が高い」


「なんで登録名がない」


「その番号だけ、初期データから欠損しています」


 冬真は時計を裏返す。黒い樹脂は八年前の記憶と同じ艶を持っている。


 十六歳の自分を掴んだ手。


 《先に出ろ》


 声は思い出せない。顔も。


 でも人だったなら、理由がある。冬真は初めて“怪異の正体”ではなく“誰が自分を選んだのか”を知りたいと思った。


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