第88話 逃がしてから切る
旧住宅区の避難は、予定より一時間三十二分早く始まった。
バスが足りない。
雨が降る。
交差点で事故。
現実は、綺麗な計画ほど速く動かない。
御厨に拾われ、冬真も旧住宅区の臨時集合地点へ入った。
御厨が現場を回す。
月島が市と県の権限をつなぐ。
由奈は転嫁経路を一つずつマッピングする。
冬真は残因を見続けた。
例の一棟では、共用廊下から外窓へ住民を誘導し、消防のはしご車で地上へ降ろしていた。玄関へ戻ろうとした人を御厨が止め、窓際の隊員へ渡す。車椅子の住民は背負って運ぶしかなく、籠が戻るたびに時間が減った。
「あと何人」
『二十七』
その中には、まだ窓の内側で待っている住民も含まれていた。
「早く」
『言われなくてもやってます!』
由奈の声が荒い。
冬真は謝らなかった。
今はそれでいい。
避難中、一人の老人が家へ戻ろうとした。薬を忘れたという。現場班が止めても聞かない。
冬真は走って追いついた。
「薬、何」
「血圧だよ」
「今夜一回抜けても死なない?」
「たぶんな」
「じゃあ俺の“たぶん”より信用できる」
老人が睨む。
「家に犬がいる」
薬ではなかった。
御厨が無線で動物保護班を回す。十分後、小型犬が抱えられて出てきた。老人は何も言わず頭を下げた。
計画表にはなかった十分。冬真は焦ったが、切り捨てなかった。人を避難させるとは、身体だけ移動させれば終わる仕事ではない。
最後のバスが出るまで、残り二十三分。
「間に合う?」と由奈。
「間に合わせる」
今度は言い切った。
最後の住民がバスへ乗る。
あの少女もいた。
由奈が居住者名簿とバスの乗車表を照合する。はしご車で救出した人、別便で病院へ運ばれた人も重複しないよう分けた。御厨の班から、あの一棟は各室の確認も終えたと報告が入る。住宅区内の未確認者は、ようやくゼロになった。
冬真は発車前の最後の確認で一台ずつ乗車数を確かめた。窓の向こうで住民は不安そうに街を見ていた。これは本来、自分がやる仕事ではない。けれど、あの少女が乗ったことだけは自分の目で確認したかった。
御厨に見つかる。
「お前、そういうとこあるな」
「何が」
「自分で見ないと気が済まない」
「悪い?」
「時間ある時なら」
今はぎりぎり時間があった。
少女は窓越しに親指を立てた。冬真も返す。
それで終わり。励ましの言葉は要らない。
「お兄さん」
「何」
「今度は“まだ分からない”じゃないんだ」
冬真は黒い線を見る。
「今回は分かってる」
「じゃあ頼んだ」
バスの扉が閉まる。
冬真は振り向いた。
「全部戻す」
最後のバスが角を曲がった。団地の窓が一斉に暗くなった。人が消えた後の町は、急に大きく見える。
冬真はヘルメットを被り直した。
「じゃあ、戻します」
御厨に現場を任せ、冬真が避難所へ向かうと、着いた住民から「いつ帰れる」が始まった。当然だ。自宅には薬も仕事道具も制服もある。犬だけではない。生活の全部が置いてある。
冬真は「安全確認後」としか言えない自分に少し苛立った。
由奈が横で住民向け掲示を作る。
《今夜中の帰宅はできません》
「言い切る?」
「できない希望持たせるよりいい」
「強いな」
「主任に鍛えられました」
「俺?」
「新田課長」
「そっちか」
冬真は苦笑した。自分だけでなく、周りもこの半年で変わっている。
月島から中央側の確認が届いた。駅は危険な階段への流入を止めて誘導路を確保。病院は車椅子の患者を別棟側へ移し、夜勤班の点呼が済んだ。商業区は閉店後の人が路上に滞留しないよう、警察と消防が分散させている。
冬真は旧住宅区の退避完了と中央側の三件を並べて見た。月島が決めた条件が、初めて両側で揃った。まだ怪異は動いている。安全になったわけではない。ここからなら、戻る残因を受け止められる。
避難所の蛍光灯の下で、少女が父親の工具箱を膝に置いていた。持ってきたらしい。
それを見て、冬真は絶対に今夜で終わらせると決めた。




