第87話 今夜だけ
鷹取から連絡が来たのは、受け皿を作っている最中だった。
『今夜だけ、システムを止めないでください』
「何する気」
『何もしません。既に動いています』
市内の残因量が急上昇する。
中心街で大型異常発生。
転嫁システムが自動で旧住宅区へ流し始めた。
避難完了まで、あと二時間。
「狙った?」
『いいえ。災害は私の都合で来ません』
鷹取の声はいつも通り穏やかだった。
『だから設計が必要なんです』
冬真の視界で、黒い線が住宅区へ雪崩れ込む。
今切れば、中心街へ戻る。
切らなければ、住宅区が耐えない。
『久世さん。どちらを選びます?』
冬真は答えなかった。
月島へ振り向く。
「避難、前倒しできる?」
「できます。でも交通規制が」
「御厨さん」
「やる」
冬真は携帯へ戻る。
「どっちも選ばない」
『それが一番危険ですよ』
「知ってる」
異常の急上昇は、夕方の帰宅時間と重なった。中心駅の改札が混み、商業施設から人が溢れる。転嫁先の旧住宅区では、テレビが勝手につき、空室のドアが内側から叩かれ始めた。
冬真の視界には、街全体が黒い血管みたいに見えた。
鷹取の声だけが静かだ。
『今切れば、中心部へ戻る。あなたはそれを知っている』
「知ってる」
『なら選ぶしかない』
「それ、あなたが作った選択肢でしょ」
冬真は地図を睨む。選択肢そのものを増やせないか。人を動かす。時間を作る。現場を先に置く。
御厨が通信で「バス会社二社押さえた」と言った。月島は県警と道路管理をつないでいる。
一人で全部できない。
でも、自分が切るために周りを動かすことはできる。
「二択って言う奴、大体三つ目嫌いなんですよ」
『見せてください』
「言われなくても」
鷹取との通話中、旧住宅区の一棟で火災警報が鳴った。火は出ていない。代わりに各部屋の玄関が“外へ出るほど同じ廊下へ戻る”状態になった。
『一棟、ループ発生!』
御厨の声。
「まだ切らない!」
『分かってる。人だけ出す』
無線の向こうで何か硬いものが割れた。
『玄関と階段は同じ廊下へ戻る。だが廊下の外窓は本物だ。消防のはしご車を寄せた』
冬真は地図の一棟を拡大した。御厨の班は窓を開け、雨の吹き込む場所へ住民を集めていた。下では消防隊員が籠の位置を合わせる。
『最初の一人、地上へ降ろした。歩けない人もいる。急がせるな』
人が外へ出ても、黒い転嫁線はまだ住宅区へ流れている。冬真は指を握り直した。ここで切れば、窓の前に残った人まで巻き込む。
鷹取が静かに聞いている。
『あなたの仲間は優秀ですね』
「知ってる」
『だからこそ、もっと効率よく使える』
「人を設備みたいに言うな」
『人員配置の話です』
「そういう言い換えが嫌い」
冬真は通話を切った。
今は議論より人を出す方が先だ。鷹取が正しいか間違っているかを決めるために、住民を待たせる気はなかった。




