第82話 事故ゼロの区画
旧住宅区には、普通に人が住んでいた。
古い団地。
小さな商店。
自転車置き場。
“重点復旧対象外”という言葉から冬真が勝手に想像した無人地帯とは違う。
「住んでるじゃん」
「そりゃ住みますよ」
案内してくれた七十代の女性が笑った。
「家賃安いし。駅遠いけど」
冬真は周囲を見る。
黒い残因が、細く何本も住宅区へ流れ込んでいた。
中心部から。
商業区から。
観光区から。
「全部こっち来てる」
御厨の声が低くなる。
女性は聞こえなかったようで、冬真へ麦茶を出した。
「若い人が来るの珍しいねえ」
「二十四です」
「息子より若い」
「それは比較対象次第です」
由奈が横で吹く。
冬真は麦茶を受け取った。
この家を“損失の小さい地点”と呼ぶ資料が、さっき市役所にあった。
数字の向こうに人がいる。
当たり前のことなのに、現場に来るまで輪郭がなかった。
団地の廊下には、洗濯物と植木鉢が並んでいた。生活の匂いがする。資料上の“低価値区域”という冷たい言葉と、目の前の景色が噛み合わない。
冬真は麦茶を飲みながら、女性に「最近変なことありませんでした?」と聞いた。
「テレビが夜中につくくらい」
「何時?」
「二時すぎ。毎日じゃないよ」
由奈がすぐ時刻をメモする。御厨はベランダ側の避難経路を見に行く。みんな仕事をしているのに、会話の中心にいるのは“事故”ではなく、この人の暮らしだった。
女性が笑って言う。
「ここ、古いけど嫌いじゃないの。買い物遠いのだけ困るけどね」
冬真は残因の流れを見る。中心街の綺麗さを守るために、この普通の不便な暮らしが代わりに汚れている。腹の底が少し熱くなった。
団地を歩くと、中心街との距離は数字以上に感じた。バスは一時間に二本。スーパーは閉店。階段しかない棟もある。
由奈が小声で言う。
「ここに事故押しつけても、ニュースになりにくそう」
「言い方」
「でもそうでしょ」
「うん」
冬真は否定できなかった。
住民の女性はそんな二人に煎餅まで出した。
「仕事中なんで」と断る冬真に、「若いのに固いね」と笑う。
結局一枚もらう。醤油味。
残因の黒線が、その人の台所の窓をかすめて通っていた。
冬真は煎餅を噛みながら思う。この線を“低損失”と呼ぶ人は、この味も、この部屋の狭さも、この人の笑い方も知らない。
知らないまま数字だけは正しい。そこが一番厄介だった。




