第72話 年収五百二十万
「五百二十」
冬真はまた声に出した。
「数字好きですね」
由奈がコーヒーを飲む。
「好きじゃない。増える数字が好き」
「家賃?」
「九万五千まで見る」
「広域資格取って五千円しか増えてない」
「現実見ろ」
御厨が横から口を挟む。
「通勤近くしろ。朝遅い」
「主任に言われたくない」
「俺は遅れねえ」
「早く来て寝てるだけでしょ」
新田が資料を机へ置いた。
「浮かれる前に条件確認。国家指名案件は危険度別手当、出張、待機拘束あり。年収だけ見てサインするな」
冬真は紙を読む。
「有給増える?」
「そこ見るのは正しい」
少しだけ嬉しくなった。
強くなる。
難しい事故を閉じる。
それが生活の選択肢に戻ってくる。
ただの肩書きではない。
冬真はサインした。
その夕方、不動産アプリの保存条件を九万五千円へ変えた。
五百二十万という数字を見た夜、冬真は本当に不動産屋へ寄った。内見したのは駅徒歩八分、家賃九万六千円。浴室乾燥、独立洗面台、二口コンロ。
「二口……」
案内の女性が首を傾げる。
「何か?」
「今、一口なんで」
広域異常を閉じる男の感動としては小さい。でも毎日使うのはこういうものだ。
契約はしなかった。国家指名案件がどれだけ続くか、まだ分からない。以前なら背伸びして決めたかもしれないが、今は“払える”と“払い続けられる”を分けて考えられる。
帰りに御厨から《明日六時半》とだけ来た。
《早い》
《国家級》
《その言葉便利に使うな》
給料が上がっても、朝は早いままだった。
新しい年収条件には、危険度S級案件の追加手当もあった。冬真はそこだけ赤ペンで囲った。
「使う気満々ですね」と由奈。
「取れるものは取る」
「命も?」
「それは取られない」
口に出してから、少しだけ重くなる。国家級の現場が増えれば、今まで通りの使い方で身体が持つ保証はない。
由奈は茶化さず、書類の健康管理条項を指した。
「これ、ちゃんと使ってください。能力負荷の検査」
「病院嫌い」
「知ってる。でも行く」
「何で決定事項」
「チームの共有資産だから」
「俺、人なんだけど」
「だからです」
冬真は黙って条項に丸をつけた。言い返せない時は、大体向こうが正しい。




