第53話 一番遠い場所
千葉の現場は、旧排水制御センターだった。
廃止から七年。
建物は残っているが、設備は使われていない。
「こういうの、毎回“使われてません”って言いますよね」
由奈が車を降りながら言う。
「実際使われてないからな」
「怪異だけが使う」
「嫌な再利用だな」
雨は降っていなかった。
なのに敷地の中央だけ、水たまりが増えている。
御厨が手袋を締め直した。
「入るぞ」
「待って」
冬真の声で、御厨の足が止まる。
この半年で変わったことの一つだった。
前なら、御厨は自分で危険を見て入った。
今は冬真が止めれば止まる。
黒い残因は建物の奥ではなく、屋上へ伸びていた。
「上です」
屋上へ上がる途中、階段の踊り場で冬真の靴底が滑った。御厨が腕を掴む。
「広域資格取る前に落ちるな」
「縁起でもない」
「朝からそれ言われてんだろ」
屋上には何もない。
古い雨量計が一本。
針はゼロを指している。
その横に男が倒れていた。
服も髪も、完全に乾いている。
なのに足元だけ、輪郭に沿って水が溜まっていた。
冬真はしゃがみ込む。
「この人、雨に濡れなかったから死んだ」
御厨が低く言った。
「普通、逆だろ」
「今回は濡れてることが“ここにいる条件”なんだと思います」
遠くで、晴れた空から雷が鳴った。
制御センターの周囲には、フェンス越しに新しい住宅が並んでいた。廃施設の隣で子どもが自転車をこいでいる。異常現場は、いつも“異常だけの場所”にあるわけではない。
乾いた男の財布には、孫らしい子どもの写真が入っていた。由奈が身元照会をしている間、冬真は写真から目をそらした。死者を“異常のヒント”としてだけ見る癖はつけたくない。
雨量計の針はゼロ。なのに男の足元の水だけが、ゆっくり靴の形をなぞって増えていく。
屋上の端から見える住宅街では、洗濯物が風に揺れていた。数百メートル先では誰もこの建物の上で人が死んだことを知らない。サイレンもまだ遠い。
冬真は倒れた男の手を見る。爪の間に赤錆。最後まで雨量計に触れていたらしい。
「自分で直そうとした?」
御厨がしゃがむ。
「たぶん。呼ばれて来て、昔止めた設備を見た」
「で、死んだ」
「七年前の仕事に」
冬真の声が少し低くなる。仕事は終わったと思って帰る。その終了が間違っていたせいで、何年後かの自分に追いついてくる。
それは水無月ホテルの八年と少し似ていた。
冬真はその連想をそこで切った。今見るべきは、この男の七年だ。




