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第5話 署名

四〇三号室の異常は、その日の夕方までに収束した。


原因は住人ではなかった。


二十年前の改修時、四〇三と四〇四をつなぐ通路で作業員四人が一酸化炭素中毒を起こしていた。全員救命されたため死亡事故にはならず、当時は普通の労災として処理。


四人が「入った」という記録だけが強く残り、塞がれた通路が異常の核になっていた。


冬真にはまだ、なぜ二十年経って今になって再発したのか分からない。


分からないことは報告書にも書いた。


『終息を確認。ただし発生契機不明。再発可能性を否定せず』


新田はその一文を見て眉間を揉んだ。


「これ、客が一番嫌う書き方」


「嘘は書けません」


「分かってる。だから消せとは言ってない」


新田は赤ペンを置いた。


「D級復旧意見、共同署名にする」


冬真は顔を上げた。


「俺が?」


「あなたが見つけたんだから、あなたの名前で残す」


「責任も?」


「当然」


嬉しいより先に胃が重くなる。


新田が笑う。


「そういう顔するなら、まだまともね」


署名欄。


調査担当:新田真紀。


補助調査:榊原由奈。


共同所見:久世冬真。


冬真はペンを持った。


名前を書く。


ただそれだけなのに、妙に手が重かった。


「怖い?」


新田が聞く。


「はい」


「いいことよ。判子を押すのが怖くなくなった人間から、事故を起こす」


冬真は署名を終えた。


帰りにコンビニへ寄った。


いつもなら値引きシールの弁当を探す。


今日は棚の上段にある九百八十円の牛タン弁当を見た。


一万八千円の危険手当を思い出す。


三十秒迷って、手に取った。


レジへ向かう途中でスマホが震える。


御厨からだった。


『明日十時。都局。会議』


続いて一行。


『お前も来い』


冬真は牛タン弁当を持ったまま立ち止まった。


値段以上に、そっちの方が現実味がなかった。


署名した翌日、冬真の社内チャットに知らない人から三件メッセージが来た。


〈杉並案件の人ですよね。今度相談していいですか〉


〈D級復旧で確認したいことがあります〉


〈例の“結果が残る”件、資料ありますか〉


社内で名前が広がるのは、都局で覚えられるより現実的だった。


「有名人」


由奈が面白がる。


「嫌だ」


「でも前は誰も久世さんに聞かなかったじゃないですか」


それはそうだった。


以前の冬真は、現場で写真を撮り、書類を揃え、新田へ渡す人間だった。判断は上がする。自分の名前は報告書の後ろにしか残らない。


今は、判断を聞かれる。


嬉しいより怖い。


でも、怖いままやるしかないこともあるらしい。


◇ 名前を覚えられる


東京都特異災害対策局、本庁舎。


冬真はこの建物が苦手だった。


入口のセキュリティゲートからして、自分が場違いだと教えてくる。


「社員証、ちゃんと見えるようにしてください」


由奈に言われ、胸元のカードを直す。


「見えたら余計に民間の契約社員だって分かる」


「堂々としてれば正社員に見えます」


「カードに契約区分書いてある」


「じゃあ無理ですね」


会議室には都局の現場対応、技術解析、消防連携、建築安全、民間調査会社の担当者が並んでいた。


議題は北区マンションと杉並アパート。


冬真は後ろの席に座った。


自分が話すつもりはない。


技術解析担当が説明する。


「両事案とも既存測定器では事前兆候を検出できませんでした。再分類はDですが、現時点で共通性は――」


「ある」


御厨が遮った。


室内の視線が集まる。


「復旧完了後に再発してる。しかも、既存測定で陰性」


「それだけなら偶然の範囲です」


「久世」


突然名前を呼ばれ、冬真は顔を上げた。


隣で由奈が、資料の陰から口だけ動かす。


――頑張って。


冬真は目だけで、聞いてない、と返した。


「お前はどう見る」


会議室が静かになる。


冬真は御厨を睨みたくなった。


聞いていない。


「……共通点はあります」


「何です?」


技術解析の女性が聞く。


「原因ではなく、結果が残る」


「比喩ですか?」


「今のところ、そう説明するしかありません」


冬真は二件の写真をスクリーンに出した。


「マンションは“二階から一階へ七人降りる”という未完了の避難。アパートは“入口から四人入る”という未完了の作業記録。どちらも、本来なら事故として終わっている出来事です」


「記録が怪異化したと?」


「分かりません。ただ――」


冬真は一呼吸置いた。


「終わったことにされたものほど、残ってる感じがします」


誰もすぐには反応しなかった。


格好いい説明ではない。


科学的でもない。


でも御厨だけは頷いた。


「次から、復旧判定で似た違和感が出たら久世を先に呼んでくれ」


向かいの男が眉を上げる。


「民間の補助員を?」


「肩書きで事故が止まるならそうする」


室内に小さな笑いが起きた。


冬真は笑えなかった。


会議後、新田から封筒を渡された。


「D級独立復核、臨時権限」


「共同じゃなく?」


新田は申請書の一番下を爪で示した。


「Dだけ。最終承認は私」


「十分です」


「安い男」


冬真はペンを取りながら顔をしかめる。


「二回目です、それ」


廊下を出ると、御厨が自販機の前にいた。


「久世」


「はい」


「次から、止めるなら理由を三十秒で言え」


「努力します」


「できない時は?」


冬真は少し考えた。


「入らないでください、だけ言います」


御厨は缶コーヒーを一本投げてよこした。


「それでいい」


冬真は受け取った。


百四十円のブラックコーヒー。


会社では何も変わっていない。


席も、契約区分も、年収も同じ。


ただ、都局の誰かが自分の名前を覚えた。


それだけで、次に呼ばれる現場の危険度は確実に上がる。

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