第31話 社員証
正社員になった翌朝、会社は何も変わらなかった。
エレベーターは混んでいる。
コーヒーは薄い。
隣の席のプリンターは紙詰まりしている。
違ったのは社員証だけだった。
契約区分の表示が消えた。
冬真はカードを裏返し、もう一度見る。さらに裏返す。
「朝から何回見てるんですか」
「二回」
「四回です」
「数えてたの?」
「暇なので」
「プリンター直して」
「それは正社員の仕事です」
「昨日まで一緒だっただろ」
由奈は笑いながら紙詰まりしたトレーを引いた。社員証一枚で急に偉くなるわけではない。コーヒーは相変わらず薄いし、机の引き出しには割り箸が三膳しかない。
それでも、カードにあった小さな但し書きが消えただけで、胸のどこかが妙に軽かった。
由奈が社員証へ伸ばした手を、冬真は反射的に避けた。
笑われても、契約区分の消えた文字をもう一度だけ見たかった。
年収見込み四百三十二万円。
住宅手当。
退職金制度。
資格手当は別。
三年間、同じ会社で働いてきただけなのに、紙一枚で未来の見え方が変わる。
新田がファイルを机へ置いた。
「浮かれてるところ悪いけど、新規案件」
「初日くらい研修とかないんですか」
「三年いる人に何を教えるの」
新田はファイルを開いた。
「正社員の心得」
「残業申請を忘れない」
「現実的」
ファイルの表紙には、都内の市名があった。
内容。
市役所が発行した「安全確認済証」のある住宅だけで、原因不明の転居が急増。
「人が死んでない?」
「今のところ」
新田が言った。
「だから行政は事故扱いしたくない」
「じゃあ、うちに何を」
「事故になる前に見ろって」
冬真は高速道路を思い出した。
終わる前の事故。
今度は、まだ事故とすら呼ばれていない。
社員証が変わった日の昼、冬真は社員食堂で定食を取った。
契約社員でも使えた食堂なのに、会計時に社員割引が一段増えている。
「百二十円安い」
由奈が笑う。
「そこに一番感動してません?」
「毎日だと大きい」
年間二百日使えば二万四千円。
危険手当より地味で、でも確実だ。
正社員になるというのは、肩書きより、こういう小さな固定費が変わることなのかもしれない。
冬真は味噌汁を飲みながら、次の案件資料を開いた。
安全確認済証。
安全だと証明する制度。
自分が正社員になった日に、今度は“安全”という肩書きを疑う仕事が来る。
少し笑えた。
◇ 安全な町
東京都西部、桐森市。
人口十二万。
駅前再開発が進み、子育て世帯向けのマンションが増えている。
市の売り文句は「災害に強い、安全なまち」。
実際、白昼断層以降の特異災害発生件数は都平均より低い。
「良いことじゃないですか」
由奈が市の広報パンフレットを見た。
「数字だけなら」
問題は転居率だった。
特異災害安全確認済証を取得した住宅に限って、半年以内の退去率が異常に高い。
理由はばらばら。
眠れない。
子どもが部屋を嫌がる。
家族喧嘩が増えた。
仕事の都合。
誰も怪異とは言わない。
最初の訪問先は、新築三年の戸建て。
住人は三十代夫婦と五歳の娘。
「何か見たとか、音がするとかはないです」
夫は困ったように言った。
「ただ、娘が二階へ上がらなくなって」
「いつから?」
「市の安全確認が入った後くらい」
冬真は二階へ上がる。
子ども部屋。
明るい。
新しい。
違和感はない。
階段を下りる。
途中で五歳の娘が見上げていた。
「お兄ちゃん、上に行った?」
「行ったよ」
「何人で?」
冬真は足を止めた。
「一人」
女の子は首を振る。
「二人だったよ」
御厨が二階を見る。
冬真はもう一度階段を上がった。
今度は、自分の一歩後ろから同じ足音がした。




