第3話 一万八千円
御厨が蹴破った壁の向こうには、本物の非常階段があった。
断因の直前、全員の腕時計は二時十七分で止まっていた。
それが一斉に動き出したことで、冬真は数字の意味まで理解した。
2:17は時刻ではなかった。
二階から一階へ、七人。
三年前、このマンションで起きた未認定事故。
停電時、二階の非常階段に七人が取り残された。そのうち一人が転落して負傷。怪異認定には至らず、管理会社は設備不良として処理していた。
由奈が古い管理記録を引っ張り出した時、冬真は画面の「2F→1F/7名」という記載を見て、ようやく数字の意味が重なった。
2:17。
表示できる形に押し込まれただけだった。
事故は翌朝九時四十分、特異災害Dへ再分類された。
マンション全館は一日封鎖。
追加の人的被害は軽傷一名。三〇六号室の死者を含め、被害は計二名だった。
三日後。
冬真は会社の自販機前で給与明細アプリの支給予定欄を開いた。
基本給。
深夜勤務。
時間外。
そして見慣れない項目。
特殊危険業務手当 18,000円(次回支給予定)。
「おお」
後ろから由奈が覗き込んだ。
「人の給与明細見るな」
「私も同額です。見なくても分かります」
「じゃあ覗く意味ないだろ」
「喜びを共有しようかと」
冬真はスマホを閉じた。
一万八千円。
命を張った値段として考えると腹が立つ。
先月の明細にはなかった一万八千円が、次の給料に載る。そう考えると、少し嬉しい。
「久世」
背後から新田真紀の声がした。
冬真は反射的に背筋を伸ばした。
「壁一枚、いくらしたと思う?」
「非常階段に出るためだったので」
「聞いてない」
「知りません」
「四十八万」
由奈が静かに一歩離れた。
「でも二次事故を防いだことで、管理会社の想定損失は最低でも一千二百万減った」
冬真は新田を見る。
「褒めてます?」
「数字を言ってるだけ」
新田は一枚のカードを冬真へ差し出した。
社員証だった。
表面は同じ。
裏の権限表示に一行増えている。
D級事案内部資料 閲覧可。
「臨時権限。勘違いしないで。あなたが偉くなったんじゃない。会社が、あなたの“気持ち悪い”に少しだけ金を払う気になったの」
「十分です」
「安い男ね」
「年収三百二十万なんで」
新田は鼻で笑って去った。
由奈がカードを見る。
「何見ます?」
「三年前の事故」
「マンションの?」
「それも」
冬真はカードリーダーに社員証を当てた。
今まで開かなかったフォルダが一つ開く。
検索欄に、水無月ホテル、と入力する。
アクセス拒否。
D級では足りなかった。
それでも画面の下に、関連記録数だけが表示された。
17。
冬真は、しばらくその数字を見ていた。
D級資料庫へ入れるようになったからといって、冬真の席が広くなるわけではなかった。
午後、隣の営業部から段ボール箱が三つ運ばれてきて、むしろ通路は狭くなった。
「昇格感、ゼロですね」
「昇格してない」
冬真が明細を閉じると、由奈が指で机を二度叩いた。
「権限だけ上がった」
「責任も」
「給料は一万八千円」
由奈が眉を上げる。
「一回だけな」
由奈が笑う。
それでも冬真は、以前なら灰色表示だった案件名を開けることに、小さな満足を覚えていた。強くなったというより、鍵が一本増えた感じだった。
ただし鍵が増えれば、開けたくない扉まで見える。
水無月ホテルの検索結果に表示された「17」は、その日の午後ずっと頭の隅に残った。
数字はただの数字なのに、妙にこちらを見ている気がした。
◇ 空室の呼吸
新しい呼び出しは四日後だった。
杉並区。築三十六年の五階建てアパート。
退去済みの一室から「人の呼吸音がする」という管理会社からの通報。
「ホラー映画なら絶対入らない案件ですね」
由奈がマスクを直した。
「仕事でも入りたくない」
「じゃあ帰ります?」
「帰ったら時給出ない」
「強い」
四〇三号室。
電気、水道、ガスはすべて停止済み。
室内には家具もない。
それでも確かに聞こえた。
すう。
はあ。
人が眠っている時の、深い呼吸。
測定器は反応なし。
御厨が壁際へ寄る。
「隣じゃないのか」
「四〇二は空室。四〇四は入居者が旅行中」
由奈が答える。
冬真は床にしゃがんだ。
呼吸音は一定だ。
吸う。
吐く。
七秒。
七秒。
だが、その間隔が途中で一度だけ崩れる。
吸う。
吐く。
吸う。
そこで、吐く音がない。
「一人じゃない」
冬真が言った。
御厨が見る。
「二人?」
「数が合わない」
冬真は壁へ耳を当てた。
三人。
いや、四人。
同じ呼吸が重なっている。
空室なのに。
由奈が過去の入居者データを開く。
「前の住人は一人暮らしです。六十二歳男性。三か月前に病院で死亡」
「この部屋で死んだわけじゃない?」
「違います」
御厨が窓を開けた。
風が入る。
呼吸音が止んだ。
三人とも黙る。
「終わり?」
由奈が小さく言った。
冬真は首を振った。
違和感が増している。
呼吸が消えたのに、部屋の中のカーテンだけが呼吸していた。
膨らむ。
しぼむ。
窓は開いている。
風は外から中へ吹いている。
なのにカーテンは、部屋の内側から押されるように膨らんだ。
「御厨さん」
「何だ」
「窓、閉めて」
御厨が即座に閉める。
その瞬間。
玄関の外から、誰かがドアノブを回した。
ガチャ。
空室の中にいる三人を、外から何かが探していた。




