第2話 十分だけ待て
水染みはドアの隙間を越えなかった。
越えないのではない。
そこで止まっていた。
まるで、三〇六号室の境界だけを知っているように。
「下がれ」
御厨が冬真の肩を掴んだ。
現場対応班が二人、廊下の奥から駆けてくる。測定器の表示は正常。熱源なし、特異粒子反応なし、空間歪曲値も基準内。
「何も出ません」
「出ないから安全、は今なしだ」
御厨が言った。
五分前なら言わなかった言葉だった。
冬真は少しだけ笑いそうになったが、そんな余裕は消えた。
床の水が一斉に引いた。
次の瞬間。
十一階から悲鳴が上がった。
『主任、一一〇二! 室内が――』
無線が途中で途切れる。
御厨が走り出す。
冬真と由奈も階段へ向かった。
十一階の廊下は、さっきより長くなっていた。
エレベーターホールから一一〇二号室まで、本来なら二十メートルもない。
なのに、走ってもドアが近づかない。
「空間系!」
現場班員が叫ぶ。
「違う」
冬真は反射的に言った。
御厨が振り向く。
「何が違う」
「廊下が伸びてるんじゃない」
壁の非常灯。
同じ番号が三回出てくる。
1104。
1105。
1106。
その次も1104。
「戻されてる」
御厨は一秒も迷わず踵を返した。
「全員、後退!」
冬真も戻る。
しかしエレベーターホールがない。
代わりに、三〇六号室のドアがあった。
十一階に。
白い札まで掛かっている。
復旧完了。
「久世」
御厨が低く呼んだ。
「お前、これを十分待てば分かると思ってたのか」
「思ってません」
「じゃあ何で止めた」
冬真はドアを見た。
「分からないまま終わらせる方が、嫌だっただけです」
その答えに、御厨は舌打ちした。
怒ったのかと思った。
「最悪の理由だな」
そう言いながら、御厨は冬真より前に立った。
「でも今回は当たりだ」
腕時計を見る。
五時二十二分。
新田からもらった十分は、あと一分だった。
階段へ向かう途中、由奈が冬真の袖を引いた。
「久世さん、さっき新田課長からメッセージ」
画面には短く、〈延長承認。費用は後で詰める。死ぬな〉とあった。
「最後だけ雑だな」
「課長なりの心配ですよ」
「費用の方が先に書いてある」
「課長ですから」
十一階の異常な廊下を前にしても、会社のチャットはいつもの文体だった。それが妙にありがたい。世界がおかしくなっている時、普段と同じ言葉を投げてくる人がいると、自分がまだ仕事の中にいると分かる。
御厨は二人の会話を待たず、壁を叩いた。
「雑談終わったか」
「現実確認です」
「現実なら目の前にある」
その“現実”が十一階に三〇六号室を作っているのだから困っている。
◇ 残っている原因
御厨は三〇六号室のドアを開けなかった。
「どうする」
冬真に聞いた。
初めてだった。
命令でも皮肉でもなく、本当に判断を求められた。
「番号を見ます」
「番号?」
「部屋じゃなくて、順番」
冬真は廊下を戻った。
1104、1105、1106。
また1104、1105、1106。
繰り返している。
ただ一ヶ所だけ、違う。
非常口の表示。
本来なら十一階の非常階段は廊下の突き当たりだ。
ところが、さっきから一度も見ていない。
「由奈、図面」
「あります」
タブレットに平面図を出す。
冬真は現在位置と照合した。
「この壁の向こうが階段」
「壁だぞ」
「今は」
壁紙に手を触れる。
冷たい。
その向こうから、誰かが階段を上る足音がする。
一段。
二段。
三段。
止まる。
そしてまた、一段目から始まる。
「結果が残ってる」
「分かるように言え」
御厨が言う。
冬真は言葉を選んだ。
「この事故、何かが起きてるんじゃない。起きたことが終わってない」
「同じだろ」
「違います。新しい原因が動いてるなら、それを止めればいい。でもこれは……終わったはずの結果だけが、まだ続いてる」
御厨の表情が険しくなる。
「お前にはそれが見える?」
「見えてはいません」
「じゃあ何だ」
「気持ち悪いんです」
由奈が吹き出しそうになり、慌てて口を押さえた。
「それ報告書に書けませんよ」
「知ってる」
冬真は壁を見た。
黒い筋が、非常灯から床へ、床から存在しない三〇六号室へ伸びている。
そのうち一本だけ、壁の向こう――本物の非常階段へ届かず、途中で千切れていた。
原因と結果がつながっていない。
だから、結果が出口を探している。
あれが終了点だ。
あそこまで現実をつなげれば、切れる。
十六歳の水無月ホテルでもそうだった。
非常階段を下りたはずなのに、同じ七階へ戻った。
救助されたあとも、耳の中でずっと非常ベルが鳴っていた。
忘れたつもりだった音が、今、壁の向こうから聞こえた。
ジリリリリ。
冬真の呼吸が浅くなる。
「久世?」
由奈が覗き込む。
「平気」
嘘だった。
御厨が冬真の肩を軽く叩いた。
「平気じゃなくても後でいい。今は出口だ」
簡単な言い方だった。
冬真は一度だけ目を閉じる。
足音。
非常ベル。
存在しない三〇六号室。
その中で、一つだけ今までなかった音がある。
上から下へ流れる水の音。
「下です」
「何が」
「この廊下、上へ戻されてる。なら下へ行く動きだけがまだ作られてない」
御厨は壁を見た。
「階段を作れと?」
「違う。階段がある結果を先に作る」
「もっと分かるように言え」
冬真は消火器を指した。
「壁、壊してください」
御厨が初めて笑った。
「それなら分かる」
壁が破れ、本物の非常階段が露出した瞬間、冬真の視界で黒い筋が一本につながった。
終点が見える。
冬真は剥き出しになった非常扉へ手を置いた。
「ここで終わりだ」
指先に、糸を断つような軽い抵抗。
黒い筋が切れた。
十一階に重なっていた三〇六号室が、瞬き一つの間に消える。
全員の腕時計が同時に動き出した。
御厨だけが、その一部始終を見ていた。
「……査定屋」
「はい」
「今、何をした」
冬真は手を離した。
「事故を終わらせました」




