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第1話 2時17分

復旧完了の札が掛かった部屋ほど、久世冬真は信用しない。


東京都北区。築二十二年、十二階建ての賃貸マンション。午前四時五十八分。


久世冬真、二十四歳。大学卒業後にこの会社へ入り、まだ三年目の契約調査員だ。肩書きは軽い。給料も軽い。


ただし、現場で彼だけが持っているものが一つある。


廊下には焦げた樹脂と、消火剤の甘ったるい臭いが残っていた。


三〇六号室。ブレーカー焼損。住人一名死亡。


消防の初動確認では漏電火災。東京都特異災害対策局の一次判定は危険度E、継続性なし。つまり、行政上はもう終わった事故だ。


「久世さん、写真あと三枚で上がれます」


榊原由奈がタブレットを抱えたまま、欠伸を噛み殺した。


「三枚で足りる?」


「足りなければ会社が増やします。私たちの睡眠時間は増えません」


「説得力あるな」


「契約社員同士、現実は共有しましょう」


昨夜二十三時過ぎに呼び出されてから、六時間近い。冬真も眠かった。


眠いし、腹も減っている。帰りに駅前の牛丼屋が開いていれば寄りたい。それくらいには、この現場はもう日常の側へ戻りかけていた。


焦げた壁。倒れた椅子。半分溶けた延長コード。床に残った黒い水染み。


どれも説明がつく。


壁際のデジタル時計を見るまでは。


液晶の一部が熱で潰れている。


それでも、焼け残った表示だけが薄く残っていた。


2:17。


冬真は立ち止まった。


「榊原」


「はい?」


「死亡推定時刻、何時だっけ」


「三時台です。救急要請が三時四十二分。消防の到着が四十七分」


冬真は台所へ移った。


電子レンジはコンセントを抜かれている。表示部は消えていた。


そこにも最後の数字が残っていた。


2:17。


寝室へ行く。


ベッド脇の安物の目覚まし時計。


2:17。


「……三つ?」


由奈の声から眠気が消えた。


「停電した時間じゃないですか」


「だったらブレーカーのイベントログと合わない」


「何時です?」


「三時三十九分」


冬真はしゃがみ込んだ。


冬真が意識を絞ると、三つの時計から細い黒い筋が伸びた。


壁も床も無視して、一点へ集まっている。


他人には見えない。測定器にも出ない。


原因と結果が閉じていない時だけ現れる、冬真だけの視界――残因視。


十六歳の水無月ホテル以来、冬真はこれを見てきた。


そして三年前、もう一つ分かった。


筋の先にある「終了点」まで読み切れれば、切れる。


怪異がどれだけ大きくても、条件さえ見抜けば、冬真の手で終わらせられる。


逆に、読み違えれば切れない。


だから冬真は、自分の能力を万能だとは一度も思っていない。


――ただ、見切った怪異を終わらせることだけは、誰にも譲るつもりがなかった。


「写真、増やす」


「何枚?」


「全部」


「新田課長、怒りますよ」


「俺が三枚で帰って二人目が死ぬより安い」


由奈が一瞬だけ黙った。


廊下から硬い靴音が近づいてきた。


黒い現場服の男がドアの前に立つ。


御厨蓮司。東京都特異災害対策局、現場対応班主任。


元消防救助隊らしく、立っているだけでこの部屋の狭さが増す。


「まだ終わらないのか、査定屋」


「一点だけ確認したいです」


「一次判定は終わってる。残留反応なし。消防も撤収済みだ」


冬真は時計を指した。


「これ、二時十七分で止まってます」


「それが?」


「三台とも」


御厨がようやく時計を見る。


眉は動かなかった。


「同じ系統で一度落ちただけかもしれない」


「寝室の時計は乾電池です」


そこではじめて、御厨の視線が冬真に戻った。


その瞬間、由奈のタブレットが短く鳴った。


新規事故通知。


同じマンション。


十一階、一一〇二号室。


住人が廊下で倒れた。意識混濁。外傷なし。


備考欄には救急隊からの一文が追記されていた。


――室内の時計、すべて2時17分で停止。


由奈が画面を見たまま言った。


「……偶然、ですかね」


御厨は答えなかった。


冬真はドアノブに掛かった白い札を見た。


復旧完了。


まだインクも新しい。


事故は、終わっていなかった。


再封鎖の連絡が走ると、さっきまで帰り支度をしていた人間が一斉に動き出した。消防はホースを戻し、管理会社は住民へ待機連絡を入れ、都局の若い職員は「復旧完了」の札を外して透明袋へ入れる。


冬真はその札を見た。紙一枚で建物が安全になるわけではない。それでも、住民が家へ戻れるか、管理会社が鍵を渡せるか、保険会社が次の処理へ進めるかは、この紙一枚で変わる。


「重いですね」


由奈が冬真の視線に気づいた。


「紙なのに」


「紙だから重いんですよ。人間、見えないものは判子にして持ちたがるから」


御厨が聞こえたら怒りそうな言い方だったが、冬真は否定できなかった。


自分もいつか、その札を出す側になる。


その時、何を根拠に“終わった”と言うのか。


まだ答えはなかった。


◇ 復旧完了


午前五時十三分。


十一階は再び封鎖された。


一一〇二号室の住人は五十代の会社員だった。救急隊に運ばれながら、「寝ていただけだ」と何度も繰り返している。


寝室の時計は二時十七分。


キッチンタイマーも二時十七分。


腕時計は、二時十七分十六秒で止まっていた。


「二件続いた」


御厨が言った。


「同一原因とは限らない」


「はい」


「なら、何を止めたい」


冬真は答えなかった。


何を止めたいのか。


それが分からない。


怪異相手で一番困るのは、怖いことではない。


予算が付かないことだ。


原因不明、危険性不明、継続性不明。


だから建物一棟を閉鎖します――では、誰も判子を押さない。


住民には生活がある。


管理会社には家賃収入がある。


都には説明責任があり、冬真の会社には契約上の調査時間がある。


危険だけ見ていればいい仕事ではなかった。


「復旧完了には署名しません」


御厨の目が細くなる。


「理由は」


「分からないからです」


「分からないから安全と言えない?」


「はい」


「それで都内の建物を全部止めるつもりか」


正論だった。


冬真のスマートフォンが震えた。


表示は新田真紀。


「久世です」


『証拠は』


挨拶がない。


午前五時の上司なんてそんなものだ。


「まだありません」


『じゃあ意見じゃなくて感想ね』


「二件目が出ました」


『二件目が出たことは証拠。同じ原因だという証拠は?』


「ないです」


『建物の一時間閉鎖で、管理会社がいくら損するか分かる?』


「概算なら」


『私もよ。だから十分だけ延長する』


冬真は一瞬、耳を疑った。


「十分?」


『十分分の追加調査費なら、私が客に説明できる。それ以上止めたいなら、十分で何か持ってきて』


「何も出なかったら」


『復旧完了に同意。仕事ってそういうもの』


通話が切れた。


御厨が腕時計を見た。


「五時二十三分まで」


「そっちは六時に住民戻す予定でしょう」


「予定は予定だ」


由奈が小声で言った。


「主任、意外と優しいですね」


「聞こえてる」


「すみません」


三人で三〇六号室へ戻る。


冬真はもう一度、時計を見る。


2:17。


何がおかしい。


三時四十二分に通報。


三時三十九分にブレーカー落ち。


二時十七分に複数の時計停止。


結果だけが先にある。


人が倒れるより先に、時計が止まっている。


「時刻じゃないのかもしれない」


「何が」


由奈が聞いた。


「二時十七分」


数字として残っただけで、意味は別にある。


その時だった。


誰も触れていない電子レンジから音がした。


ピッ。


御厨が振り返る。


ピッ。


コンセントは抜かれている。


ピッ。


暗い表示部に、緑色の数字が一つずつ浮かんだ。


0。


2。


1。


7。


御厨が無線に手を伸ばす。


「全員、三階から離れろ」


冬真はレンジではなく、床を見ていた。


黒い消火水の染みが、ゆっくりと廊下側へ伸び始めていた。


重力とは反対の方向へ。

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