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第26話 終わる前の事故

千葉県境の高速道路では、まだ大事故は起きていなかった。


晴天。路面乾燥。視界良好。


それなのに走行中の車が、同じ地点で次々と急停止する。


追突は三件。


重傷者なし。


ドライバーは全員、同じことを言った。


「前に壁があった」


現場へ向かう車内で、冬真は報告書を読み返した。


「壁?」


「見えたらしいです」


由奈がタブレットを渡す。


「高さも色も?」


「人によって違います。コンクリートって人も、黒い板って人も、工事柵って人も」


「共通してるのは“進めない”だけか」


御厨が運転席から言った。


現場は片側三車線のうち一車線だけ規制されていた。


冬真は路肩へ立つ。


大型車が通るたび、風が服を叩く。


何もない。


違和感も、薄い。


「止める?」


御厨が聞く。


以前なら、その問いに答えるだけで胃が痛かった。


今も痛い。


でも逃げる理由にはならなかった。


「全部は止めない」


冬真は三車線を見る。


「事故が出てるのは中央だけ。中央を閉じて左右は速度規制」


「理由は」


「まだ壁があるなら、止まる車線だけ残因が強い」


御厨は無線を取る。


道路会社へ連絡。


全面封鎖でも放置でもない。冬真が出したのは、道路会社と現場班が今すぐ動ける判断だった。


十五分後。


中央車線を閉じた直後、無人の規制標識が突然中央へ滑り出した。


左右の車線には入らない。


見えない壁は、確かにそこにあった。


高速道路の路肩で、冬真は初めて“事故が起きる前の損失”を考えた。


追突三件はもう起きている。


でも本当に怖いのは、その次だ。


大型車が急停止すれば多重事故になる。


全面閉鎖すれば物流が止まる。


何もしなければ、今は存在しない被害が現実になる。


「未来は見えないんですよね」


由奈が聞く。


「見えない」


「じゃあ予防って難しい」


「普通の事故も同じだろ」


冬真はそう答えて、自分で納得した。


特異災害だけが特別なのではない。


人間はいつも、まだ起きていない損失に金を払って備える。


保険も、点検も、交通規制も同じ。


この仕事が少し普通の仕事に見えた。


◇ ブレーキ痕


急停止した車両のブレーキ痕は、すべて同じ場所から始まっていた。


路面上の一点。


しかし道路構造上、そこに何もない。


「工事履歴」


冬真が言う。


道路会社が過去資料を出す。


三年前、この区間で橋梁補修工事。


その際、中央車線を夜間閉鎖していた。


「また古い規制?」


由奈が聞く。


「それだけなら簡単すぎる」


冬真は現場写真を見る。


三年前の閉鎖位置。


現在の急停止位置。


二十三メートルずれている。


「工事じゃない」


御厨が路面を指した。


白線の一部だけ色が新しい。


道路会社の担当者が説明する。


「去年、事故多発地点対策で車線を引き直しました」


冬真は旧図面と重ねる。


古い中央線。


新しい中央線。


見えない壁は、その中間にある。


どちらの記録にも完全には属していない場所。


「境界が残ってる」


「何の?」


「閉鎖した車線と、開けた車線の」


道路は更新された。


でも“ここから先へ入れない”という結果だけが、旧位置から移動しきらなかった。


御厨が言う。


「じゃあ線を引き直せば終わる?」


「たぶん。でも、今回は人が走ってる」


地図を見る。


この区間を完全閉鎖すれば、物流に大きな影響が出る。


冬真は思った。


終わった事故より、終わる前の事故の方がずっと難しい。


まだ誰も損失額を確定できないからだ。

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