第19話 人間の都合
事故は止まった。
十九階の非常階段を下り切ったところで、冬真の膝が一度だけ笑った。御厨に見られる前に壁へ手をついたつもりだったが、遅かった。
「立てるか」
「見なかったことにしてください」
「無理」
「じゃあ報告書には書かないで」
「それはお前の会社に言え」
救急隊員に渡されたスポーツドリンクを半分飲んでから、冬真はやっとスマホを見た。未読、二十三件。そのうち十二件が会社だった。
事故は止まった。
でも、人間側の事故処理はそこから始まった。
新田が会議室で一枚の古い資料を出した。
「うちも関わってる」
冬真は目を通す。
三年前の復旧支援。
東都災害査定サービス。
新田の署名があった。
「課長が?」
「当時、私が担当課長代理」
「知ってたんですか」
新田はすぐには答えなかった。
「微弱反応が一度出たことは」
「それでも終わらせた?」
「終わらせた」
新田は逃げなかった。
「客は追加調査を拒否。都の再測定は陰性。消防も利用可能。契約上、うちが止める根拠はなかった」
冬真は苛立った。
「でも今こうなってる」
「そうね」
「じゃあ間違ってた」
「結果だけ見れば」
新田の声が少し硬くなる。
「でも久世。現場で毎回“万が一”を最大に取ったら、社会は動かない。あなたが地下鉄で七分に絞ったのと同じよ」
冬真は黙った。
正しい。
「私は三年前、切る場所を見つけられなかった。だから全部止めるか、全部動かすかしかなかった」
新田は自分の署名を見る。
「動かした」
「後悔してます?」
「仕事で一番役に立たない質問」
「相馬さんも似たこと言いました」
「でしょうね」
少し沈黙。
「でも次は、同じ判子を押さない」
新田は資料を閉じた。
「あなたがいるから」
冬真は顔を上げた。
「それ、褒めてます?」
「数字じゃないから違う」
いつもの調子だった。
それで十分だった。
新田の署名を見つけた時、冬真は裏切られたような気持ちになった。
すぐに、その感情が勝手だとも思った。
新田は自分のために正しい上司でいるわけではない。
過去に間違うし、今も判断を迷う。
「課長にもあるんですね」
「何が」
「見たくない報告書」
新田の指が一瞬だけ止まった。
「山ほど」
「意外」
新田がようやく冬真を見る。
「あなた、私を何だと思ってるの」
「数字で人を殴る人」
新田は否定しなかった。
「だいたい合ってる」
二人とも少し笑った。
完璧な上司より、過去の判子を見ながら次を変える上司の方が信用できる。
冬真はそう思った。
自分もいつか、今の署名を後悔する日が来るかもしれない。
その時、隠さず次に使える人間でいたい。
◇ 同じ会社ではない
十七件をつなぐ陰謀。
冬真は一度、本気でそれを疑った。
同じ会社が裏で事故を隠した。
同じ部署が数字を書き換えた。
誰かが意図的に未終結案件を増やした。
その方が物語としては分かりやすい。
現実は違った。
「全部違います」
由奈が一覧を出した。
施工会社、十七件中十一社。
保険会社、六社。
行政担当部署、五系統。
査定会社、九社。
共通人物なし。
「じゃあ誰も仕組んでない?」
御厨が聞く。
「少なくとも、人間一人の陰謀ではないです」
冬真は地図を見た。
なら共通するのは、制度だけ。
白昼断層後の混乱期。
暫定復旧。
閉鎖確認を後回しにした仕組み。
「同じミスを、別々の人がした」
「ミスとも言い切れない」
新田が言う。
「当時のルール通りよ」
冬真はその言葉に引っかかった。
ルール通り。
なのに事故が残った。
怪異は、悪意より隙間を好むのかもしれない。
誰も責任を持たない境界。
誰も完全には間違っていない判断。
そこに、結果だけが取り残される。
「嫌な相手ですね」
由奈が言う。
「殴れない」
御厨が答える。
「主任そればっかり」
「得意分野だからな」
冬真は地図を閉じなかった。
十七件。
ばらばらだからこそ、同じものが潜んでいる。




