第17話 正しい報告書
三年前の改修報告書は完璧だった。
写真。
チェックリスト。
署名。
検査記録。
設備番号。
何も抜けていない。
「逆に怖いですね」
由奈は紙の報告書を光に透かした。ホチキスの位置まで揃っている。
「こういうの、就活のエントリーシートで見ました」
「何が」
「ちゃんとしすぎてて逆に本人が見えないやつ」
「落ちた?」
「受かりました」
「じゃあ説得力ないな」
「今ちょっと嫌いになりました」
笑えるうちはまだよかった。問題は、その完璧な紙の下で、本当に何が終わっていたのかだ。
由奈は報告書の揃いすぎた余白を指で押さえた。
現場の報告書には、たいてい小さな汚れがある。
写真の角度がずれている。
担当者の字が読みにくい。
添付ファイル名が統一されていない。
人が作るからだ。
でもこの報告書は、きれいすぎた。
「誰が作った?」
主担当は、当時の設備会社の現場責任者。
名前は相馬圭一。
現在は別会社へ転職している。
冬真たちは本人に会った。
五十代半ば。
疲れた顔の男だった。
「覚えてますよ」
相馬は三年前のビル事故資料を見た。
「忘れられない」
「何があったんです?」
「工期が止められなかった」
相馬は笑わなかった。
「特異反応が一度だけ出た。基準以下。再測定ではゼロ。でも追加調査なら二週間」
「二週間止めると?」
「テナント開業が飛ぶ。違約金、数億」
御厨が聞く。
「だから復旧完了にした?」
「当時の基準では、それで問題なかった」
相馬の声が少し強くなる。
「俺一人で決めたんじゃない。消防も都もオーナーも、数字を見て決めた」
冬真は責める気になれなかった。
三年前の自分がそこにいても、同じ判断をしたかもしれない。
「報告書がきれいなのは?」
相馬はしばらく黙った。
「何も残したくなかったからだ」
冬真は、新田に最初の報告書を差し戻された日を思い出した。
最初の頃は誤字だらけだった。
新田に赤を入れられ、由奈にファイル名を直され、写真番号を間違えて差し戻された。
「人が作るものって、普通もっと汚いですよね」
由奈も同じことを考えていた。
「この報告書、修正履歴が一つもない」
「珍しい?」
「あり得ないとは言わない。でも現場書類でゼロは怖い」
冬真は紙の余白に目を落とした。相馬が黙っていた時間は、どの欄にも残っていない。
次に自分が署名する時は、迷った経緯も消さずにおこう。あとで同じ現場へ来る誰かに、それだけは渡せる。
◇ 判子を押した人
相馬は悪人ではなかった。
冬真には、それが一番面倒だった。
「当時、現場を止めるべきだったと思いますか」
冬真が聞く。
相馬は長く黙った。
「今なら止める」
「当時は?」
「押した」
復旧完了の判子。
「後悔してます?」
「毎日じゃない」
相馬は窓の外を見る。
「事故が起きた今日からは、してる」
それで十分だった。
誰か一人を悪者にして終われる話ではない。
会社は工期を守りたい。
行政は社会を止めたくない。
保険会社は約款通りに判断する。
現場責任者は測定値を見る。
全部、局所的には正しい。
なのに三年後、八億六千万の事故になる。
帰り道、御厨が言った。
「殴れる相手がいないと困るな」
「主任でもそう思うんですか」
「俺は分かりやすい方が好きだ」
「俺もです」
冬真はスマホで自分が署名した過去案件を開いた。
D級三件。
全部、復旧完了。
自分の名前が残っている。
いつかこの判子が、誰かの前に出てくる可能性がある。
自分の名前が、事故の最後に置かれる。
それは「仕事を終えた」の署名ではない。次にそこへ住む誰かへ、「戻っていい」と言う署名だ。
冬真がスマホの画面を消すと、御厨が缶コーヒーを一本差し出した。
「砂糖入り」
「俺、ブラックです」
「知ってる。今日は甘い方にしろ」
「気遣いが雑なんですよ」
「飲むのか」
「飲みます」
甘すぎた。けれど、その甘さでようやく喉の奥に残っていたものが落ちた。




