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終わったはずの事故を、俺だけがまだ見ている  作者: YunCang


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16/112

第16話 八億六千万

現場は丸の内の複合商業ビルだった。


地下二階から地上二十九階。


オフィス、飲食、物販、医療テナント、データセンター。


事故は深夜二時十三分。


十七階の設備フロアで突然、消火設備が全作動した。


火災はない。


同時に十六階と十八階の一部電源が遮断され、サーバー機器と医療系設備に損害。


人的被害は軽傷二名。


物的損害見込み。


八億六千万円。


「数字が大きいと現実味なくなりますね」


由奈が言った。


「俺の生涯賃金より高い」


「悲しい計算やめましょう」


会議室には保険会社、建物オーナー、施工会社、都局、消防、テナント代表が並んでいた。


全員、同じ事故の話をしている。


なのに誰も同じ原因を見ていない。


保険会社は特異災害なら免責の一部適用を主張。


都は設備事故なら民間責任。


施工会社は設計通り。


オーナーは全部まとめて補償してほしい。


「久世さん」


新田が小声で言う。


「今回は怪異を見つけるだけじゃ駄目」


「分かってます」


「誰が何を払うかまで、調査結果が動かす」


冬真は喉を鳴らした。


地下鉄の五分とは違う。


一つの言葉で億単位の金が動く。


「帰りたい」


「私も」


「課長でも?」


「むしろ課長だから」


少しだけ気が楽になった。


現場へ入る。


十七階は乾いていた。


異常作動したはずの消火設備。


壁に水染みはある。


冬真は一本の配管前で止まった。


ここだけ、濡れ方が逆だった。


水が噴き出した跡ではない。


床から天井へ、吸い上げられた跡。


「また結果が逆?」


御厨が聞く。


「似てます」


冬真は天井を見る。


設備図上、その先にあるのは存在しないはずの旧消火区画だった。


八億六千万円の現場では、作業着よりスーツの人間が多かった。


冬真にはそれが新鮮だった。


怪異が起きれば、最後は現場班が来ると思っていた。でも被害が大きくなるほど、会議室に増えるのは保険、法務、財務、施設管理、経営企画だった。


「戦う相手がネクタイになりましたね」


由奈が小声で言う。


「戦わない」


「じゃあ交渉?」


「それも俺の仕事じゃない」


新田が横から言う。


「久世の仕事は、誰が嫌がっても事実を一つにすること。交渉はその後」


冬真は頷いた。


原因を決めることと、責任を決めることは違う。


ここを混ぜた瞬間、調査は都合のいい答えに引っ張られる。


その線だけは守りたいと思った。


◇ 保険対象外


翌朝、保険会社の事故査定担当が断言した。


「特異現象が主因なら、通常設備事故としての全額補償は難しいです」


建物オーナー側がすぐ反発する。


「都の特異災害認定はまだ出ていない」


「認定前でも、原因が特異現象なら約款上――」


「じゃあ誰が八億を払うんです?」


空気が悪くなる。


冬真は資料を見ていた。


消火設備の誤作動。


電源遮断。


サーバー損害。


全部つながっているように見える。


でも残因の感触は、一つではない。


「二件あります」


冬真が言うと、会議が止まった。


「何が?」


「事故が」


新田が視線だけで続きを促す。


「消火設備の異常と、電源遮断は別です。発生時刻が同じだから一件に見えるけど、因果がつながってない」


施工会社の技術者が眉をひそめる。


「電源遮断は消火設備作動に連動する設計です」


「現行設計では」


「はい?」


冬真は三年前の図面を開いた。


「改修前は、十七階消火作動で十六・十八階の一部を落とす設計だった」


「それは旧仕様です。更新済みです」


「システムは更新されてる。でも事故は旧仕様で動いてる」


会議室が静かになる。


保険担当が聞いた。


「つまり、特異現象が古い設備動作を再現したと?」


「まだそこまでは言えません」


冬真は線を引いた。


「少なくとも、現行設備だけ見ても説明できない」


新田が小さく息を吐いた。


「じゃあ、三年前の復旧資料から洗う」


オーナー側は不満そうだった。


でも億単位の事故では、急いだ結論ほど高くつく。


冬真はようやく、それを実感し始めていた。

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