第15話 始発
事故処理会議で、地下鉄会社は五分遅延の損害額を提示した。
約一千八百万円。
「五分で?」
冬真は思わず聞き返した。
「朝の運行はそういうものです」
担当者は苦笑した。
もし全線を二時間止めていれば、一億を軽く超えていた。
もし開けたまま異常が続けば、比較にならない。
結果として冬真の七分提案は、最も安く済んだ。
新田が資料を閉じる。
「久世」
「はい」
「これ、会社の営業資料に使っていい?」
「俺の名前出さないなら」
新田はもう文面を直し始めていた。
「出さない。『弊社独自の現場判断により』って書く」
「急に会社の手柄になる」
「給料は会社から出てるでしょ」
「少ないですけど」
冬真が言うと、新田はようやく顔を上げた。
「交渉材料にしなさい」
冬真は少し驚いた。
新田は視線を逸らす。
「資格が上がればテーブルは変わる」
「上がるんですか」
「結果が出れば」
その夜。
冬真はいつものスーパーで値引き弁当を手に取った。
九百八十円の牛タン弁当ではない。
危険手当が入ったからといって毎日贅沢はできない。
でもビールを一本追加した。
スマホに都局の内部通告が届く。
『東新宿駅事案における民間調査員の限定封鎖判断を、今後の現場運用検討事例とする』
名前はない。
それで良かった。
誰にも知られない成功が、公共の仕事には多い。
冬真は缶を開けた。
今日も電車は動いている。
それで十分だった。
地下鉄会社から届いた損失試算のPDFを、冬真は帰宅してからもう一度開いた。
一千八百万円。
自分の判断が“二億を救った”と考えると大げさだが、五分止めたことで一千八百万が動いたのは事実だ。
その横で、自分の口座残高は二十万円台だった。
「世界、数字の桁違いすぎるだろ」
一人で呟く。
だからこそ面白いとも思った。
大きな数字を扱う仕事でも、自分の生活は冷蔵庫の卵が切れたとか、家賃の引き落としとかでできている。
翌朝、由奈にその話をしたら笑われた。
「久世さん、二億救って卵買うんですね」
「人間だからな」
その普通さを失わない方が、たぶん判断を誤らない。
◇ C級仮資格
月曜の朝、新田に呼ばれた。
「座って」
机の上に書類が三枚。
冬真は嫌な予感がした。
「契約更新?」
「違う」
「始末書?」
由奈が怪訝そうに冬真を見る。
「何か心当たりあるの?」
「壁とか」
「今さら」
新田が一枚目を向ける。
C級特異災害調査・仮資格推薦。
冬真は読んだ。
もう一度読んだ。
「俺が?」
「他に久世冬真いる?」
「いませんけど」
「地下鉄案件で都局から推薦が来た」
資格が付けば、C級現場で限定的な独立判断ができる。
閲覧権限も上がる。
そして。
「資格手当、月いくらです?」
新田が呆れた顔をする。
「そこから?」
「重要です」
「一万五千。危険手当は別」
冬真は暗算した。
年十八万。
「受けます」
「即答」
「正社員じゃないのに責任だけ増えるなら嫌ですけど、手当出るなら話は別」
「健全ね」
二枚目は研修日程。
三枚目は情報管理誓約。
署名する。
午後、社員証の権限表示が更新された。
C級資料 限定閲覧可。
由奈が画面を見て拍手した。
「おめでとうございます」
「ありがとう」
「奢ってください」
冬真は財布を押さえた。
「まだ一円も入ってない」
「来月入るでしょ」
「来月言って」
その時、社内メールが届いた。
件名。
『大型商業施設・特異損害査定支援について』
本文冒頭。
推定損害額八億六千万円。
冬真はしばらく数字を見た。
「資格、返せます?」
由奈が笑った。
「遅いです」
「始発には間に合った」
「私の朝ごはんには間に合ってません」
「それは知らない」
「主任、聞きました?」
「俺を巻き込むな」




