第112話 切る前に奪われる
横浜港の倉庫には、何も起きていなかった。
少なくとも、普通の目には。
冬真には黒線が見える。
貨物コンテナの扉から一本。
床へ落ちず、空中で折れ、隣の倉庫へ移っていく。
その先には、倉庫の奥を横切るもっと太い線がある。コンテナの一本は、途中の結び目から分かれた枝にすぎなかった。
「まだ事故じゃない?」
由奈が聞く。
「結果が出てない」
「じゃあ何が残ってるんです」
「終わりだけ先に作られてる」
意味の分からない言葉を、自分で言っている自覚はある。
それでも黒線はそう見えた。
コンテナを開ける。
中身は医療機器。
破損なし。
温度異常なし。
ただし保険記録上は、三時間前に《全損》になっていた。
「事故が起きる前に全損」
御厨が眉を寄せる。
「買い取り処理まで終わってます」
由奈が画面を見せた。
「誰が?」
「終端協定系の再保険会社」
冬真が黒線へ近づいた瞬間、終点が移る。
「また」
走る。
隣倉庫。
白い点が見えた。
断因。
落とす寸前で消える。
「……腹立つ」
「顔に出てる」
御厨が指摘した。
「出しますよ、これは」
冬真はコンテナへ戻る枝線を掴んだ。隣倉庫を抜ける太い線まで、この九十秒で切れるわけじゃない。まずは目の前の全損判定を止める。
「留因」
線が止まる。
御厨が時計を見る。
「九十」
「由奈、移送先」
「追ってます」
「林さんにも投げて」
「もう投げた」
十五秒。
二十九秒。
黒線の向こうで、誰かが終点を作り直そうとしている。
冬真の左目が熱くなる。
「五十」
「まだ」
「七十」
由奈が叫ぶ。
「移送先、保険会社じゃない。買い取り会社です!」
画面に社名。
《CLOSELINE ASIA》
「名前からして嫌い」
八十八。
冬真は白点を見切った。
「今度は取らせない」
断因。
コンテナへつながる枝だけが、結び目で切れた。太い線は隣倉庫の奥で動き続けている。
倉庫の端末で、《全損》表示が《判定保留》へ戻る。
少なくとも、このコンテナの事故は起きなかった。
倉庫の外ではフォークリフトがいつも通り走っていた。作業員は誰も、数十メートル先で“まだ起きていない事故”が移動していることを知らない。
「止めますか」
港湾担当が聞く。
冬真は首を振った。
「全部止めたら、相手に気づかれる」
「もう気づかれてるんじゃないですか」
由奈が言う。
「たぶん。でも、何を見てるかまでは見せたくない」
御厨がコンテナの影から周囲を見る。
「珍しく慎重だな」
「前に線が逃げたんで」
「学習した」
「俺もしますよ」
その直後、切らずに残した太い線が隣の倉庫からさらに先へ飛んだ。
冬真は追わない。
代わりに由奈へ位置を送る。
「次、どこへ出るか予測して」
「当たったら?」
「俺が先に待つ」
追いかける側から、待ち伏せる側へ。
相手が終点を奪うなら、その癖を読む。
それでも誰かは、事故が起きる前に買っていた。




