第102話 シンガポール地下線
到着した瞬間、湿気が眼鏡に張りついた。
「暑っ」
冬真が言う。
「東京も暑いだろ」
御厨は平然としている。
「種類が違う」
「何の種類だ」
「肌に来るやつ」
空港で待っていた現地担当は、林俊傑という三十代の技術官だった。
「Mr. Kuze?」
「Yes」
冬真は少し間を置く。
「日本語、話せます?」
「少し」
「助かった」
御厨が横で鼻を鳴らす。
「英語やれ」
「今から」
問題の地下線は営業停止中だった。
改札を抜けると、空調の冷気が汗を一気に冷やす。
現地チームはすでに三日調べていた。
水道破損なし。
排水異常なし。
湿度正常。
それでも、毎晩二時十七分から十一分間だけ、ホームにいた人間の衣服が濡れる。
「二時十七分」
冬真が足を止めた。
御厨も同じ数字に気づく。
「東京と同じか」
「偶然なら嫌だな」
林が端末を見せる。
発生日は三週間前。
最初の被害者は保守員。
二人目は警備員。
三人目からは、濡れたまま体温が低下した。
冬真はホームへ降りた。
黒線はすぐ見えた。
一本ではない。
壁。
線路。
案内板。
非常扉。
全部から細い残因が伸びている。
「多いな」
「切れる?」
御厨が尋ねた。
「まだ無理」
冬真はしゃがみ、床へ手を近づける。
線は触れない。
結果は“濡れること”。
原因はここにない。
その時、停止中の案内表示が一瞬だけ点灯した。
《EXIT 272》
冬真の背中が冷えた。
「御厨さん」
「見えた」
ホームの端には、封鎖前の営業の痕跡がそのまま残っていた。
広告。
飲みかけの紙コップ。
落とし物の子ども用ヘアピン。
閉鎖されても、場所だけは日常の途中だ。
「日本とあんまり変わらない」
冬真が言う。
林が少し笑う。
「地下鉄はどこも地下鉄です」
「それ言われると安心する」
御厨は線路側の暗がりを見たまま返す。
「安心すんな」
「早いな」
冬真はヘアピンを避けて歩く。
事故が大きくなるほど、現場は特別な場所に見えがちだ。
でも誰かにとっては、封鎖されるまで毎日通勤に使っていた駅。
それを忘れると、終わらせる意味まで数字になる。
日本で終わったはずの番号が、海の向こうで光っていた。




