第101話 パスポート
パスポートの更新窓口は、怪異より待ち時間が長かった。
「番号札、百十二番」
冬真は表示板を見上げた。
自分は百四十七番。
「終わらせられない事故って、こういうのかもしれない」
隣で由奈が吹き出す。
「役所に断因しないでください」
「してない」
「顔がしてます」
シンガポールの地下交通施設で、終端操作員の黒い認証端末が見つかった。
月島から正式な派遣要請が来たのが昨日。
旅券の申請から受領までは、通常二週間近くかかる。三日後の出発案は取り消し、現地には暫定封鎖と代替調査を頼んだ。
そして久世冬真のパスポートは、二か月前に切れていた。
「国家級の指名調査員が、旅券で止まる」
「国家級って言い方やめて」
「じゃあ海外案件デビュー前に失格する人」
「もっと悪い」
スマホが震えた。
御厨からだ。
《写真、変な顔で出すなよ》
《証明写真に面白さ求めてない》
《前の免許、犯罪者みたいだった》
《見せた覚えないけど》
数秒後。
《由奈》
「榊原」
「はい?」
「俺の免許見せた?」
「業務上必要だったので」
「顔写真まで共有する必要あった?」
「面白かったので」
「業務じゃないだろ」
呼び出し番号が一つ進む。
冬真はため息をついた。
その時、月島から画像が届いた。
シンガポールの地下ホーム。
水はない。
なのに、乗客の靴だけが膝まで濡れている。
床は乾いたまま。
画像の奥に、細い黒線が見えた。
スマホ越しなのに。
「……由奈」
「見えた?」
「うん」
線はホームの壁を抜け、画面の外へ伸びている。
海を越えているように見えた。
冬真は番号札を握り直した。
「早くしてほしいな、百十二番」
「まだ三十五人います」
「怪異の方が待ってくれない」
受付の女性が次の番号を呼ぶ。
冬真は表示板とスマホを交互に見た。
待合スペースには、旅行用の大きなスーツケースを持った家族連れがいた。冬真だけが仕事用の黒いリュック一つ。
「海外初めて?」
「修学旅行以来」
「それ海外経験に入れる?」
「パスポート作った実績はある」
「今切れてますけど」
「そこは言うな」
由奈は笑いながら、必要書類をもう一度確認する。写真、戸籍、申請票。
「事故現場だと必要書類三枚でも怒るくせに、今日は素直」
「これ出さないと飛行機乗れないから」
「権限に弱い」
「仕組みに従ってるだけ」
自分で言って少し可笑しくなった。
怪異の終了条件には逆らうのに、旅券の終了期限には従う。
世界は能力だけでは通れない場所の方が多い。
海外出張の最初の敵は、残因ではなかった。
申請から約二週間後、新しい旅券を受け取った。現地班が異常施設の封鎖を続けてくれていたおかげで、翌朝ようやくシンガポール行きの便に乗れた。




