第2章「三番目の娘」/四 削られた一項
父の寝所は、王宮の最も奥にある。
かつては王の執務室へ続く控えの間だったという。十年前、ヴィルヘルム三世が最初に倒れたとき、寝台ごと運び込むのにちょうどいい広さだったので、そのまま寝所になった。王は病に伏してなお、執務の扉のそばにいることを望んだのだと、宮廷では言われている。
セラフィナは、それが本当かどうかを知らない。父に訊いたことがないからだ。
その夜、彼女は寝所の扉を叩いた。
月に一度、三人の娘が順番に見舞うことになっている。今月の番は、長姉のアデルハイトだった。姉は昨日、嫁ぎ先の公爵領から戻る予定を、雨を理由に取りやめた。次姉のクラリッサは、そもそも王都にいない。
だから、今月も三番目の娘が来た。
扉を開けたのは、見覚えのない女だった。
——いや、見覚えはある。何度も会っている。会うたびに、顔を思い出せないだけだ。
中背、中肉、茶色の髪。地味な色の外套。王宮のどこにいても、背景の一部に溶けてしまうような女。
「殿下」
イーディス・カランは、静かに頭を下げた。
「陛下は、先ほどお目覚めになりました。今夜は、いくらかお話しになれるご様子です」
「ありがとう、イーディス」
密偵統括が王の寝所に詰めていることを、セラフィナは不思議に思わなかった。父が倒れてから、この女はいつもここにいる。父が唯一、人払いをせずにそばに置く人間。その理由を、娘は誰からも聞かされていない。
寝台は、窓の下にあった。
かつて巨躯だったと分かる骨格の上に、痩せ落ちた肉がかろうじて張りついている。額から左のこめかみにかけて、薄い膜のようなものが燭台の光を鈍く跳ね返していた。
王環。
歴代の王が継ぐ、額の紋。その周囲の皮膚が、先月よりも広く、透き通っていた。
「父上」
セラフィナは、寝台の脇の椅子に腰を下ろした。
ヴィルヘルム三世の目が、ゆっくりと動いた。濁った灰色の目が、天井から壁へ、壁から娘の顔へ、時間をかけて降りてくる。
「……クラリッサか」
「セラフィナです、父上」
「ああ」
王は、目を閉じた。
「そうだな。……クラリッサは、髪が赤い」
「はい」
「そなたは、母に似て、髪が淡い」
「はい」
それきり、王は黙った。
セラフィナは、父の手を取らなかった。取ったことがなかったからだ。幼いころから、父は遠い人だった。辺境三州を併合した「聖王」は、娘の頭を撫でる代わりに、娘の結婚相手の領地の広さを測る人だった。
それでも、月に一度、ここへ来る。
なぜ来るのか、と自分に問うたことはある。答えは出なかった。出ないまま、来続けている。
「……減った」
不意に、王が言った。
目は閉じたままだった。
「父上?」
「三日前だ。……祭りの日だな。朝だ。どこかで、少し、減った」
セラフィナは、背筋を伸ばした。
イーディスが、部屋の隅で、ほんのわずかに身じろぎする気配があった。
「星屑が、でございますか」
「王環は、国中の封じられた星屑と響き合う。……そう教わったろう。教わらなかったか。……三番目には、教えなかったか」
王は、かすれた声で笑った。笑ったのだと思う。喉の奥で、枯れ葉を踏むような音がした。
「三日前、少し減った。それから、戻った。……戻るはずがない量だった。減ったものが、戻った」
「父上、それは」
「わしは、三十年、感じておる」
王は、目を開けた。
濁った灰色の目が、今度はまっすぐに娘を見た。はっきりと、セラフィナを見ていた。クラリッサではなく。
「三十年だ。国中の星屑を、額で数えてきた。……教会に預けても、預けても、増えんのだ」
寝所の空気が、止まった。
「奉納した。毎年、奉納した。わしの戦で空にした分を、埋めるつもりで。……それなのに、王環は、一度も重くならなんだ。重くなるはずのものが、重くならん。わしはそれを、オルグレンに訊いた。一度だけ、訊いた」
「何と、お答えに」
王は、答えなかった。
目が、また天井へ戻っていった。焦点が、ゆっくりとほどけていく。
「……余は国を大きくした」
王は呟いた。誰に言うでもなく。
「大きくしただけだ。……中身を詰めるのは、そなたらの仕事になった。すまぬとは、言わぬぞ」
それきり、王は眠った。
浅い、不規則な寝息が、寝所に満ちた。
セラフィナは、しばらく椅子から動けなかった。
教会に預けても、預けても、増えない。
十七年分の、異動なし。
帳簿が黙っていたことを、父の額は、三十年ずっと知っていた。
そしてそれを、誰にも言えずにいた。自分が教会に渡した権力の大きさを、寝台の上で、額の重さとして数え続けていた。
彼女は、ほとんど無意識に、父の手へ自分の手を伸ばしかけた。
そして、途中で止めた。
止めた理由は、分からなかった。いつものように、名前のつけられない何かが、胸の奥で一度だけ跳ねた。
セラフィナは手を膝の上に戻し、立ち上がった。
「イーディス」
「はい、殿下」
「今の父上のお言葉は、うわごとです」
「はい」
「どなたにも、お伝えする必要はありませんわね」
イーディス・カランは、特徴のない顔で、特徴のない礼をした。
「私の職務は、陛下のお言葉を記録することではございません。陛下のお言葉を、守ることです」
それが、肯定なのか、否定なのか。
セラフィナには、判断がつかなかった。
◆
イーディス・カランの頭の中は、いつも十七人分の声で埋まっている。
両耳の裏に刻んだ一対の紋、双耳。対になる紋を持つ部下と、距離を無視して音だけを共有する。国中に散った十七人が、それぞれの持ち場で聞いたものを、彼女の耳へ直接送ってくる。
市場の値切り声。国境の関所の咳払い。大聖堂の聖歌隊の稽古。港の荷揚げ人夫の罵り合い。どこかの貴族の寝室の、聞かなかったことにすべき会話。
それらが、昼も夜も、途切れることなく流れ込んでくる。
眠れるのは、一晩に二刻がせいぜいだった。二十四年、そうやって生きてきた。
深夜、王宮の東翼にある小さな自室で、彼女は机に向かっていた。
足元では、老犬のグラムが寝ている。もう十四になる灰色の雑種で、耳がほとんど聞こえない。イーディスはこの犬の、何も聞こえていない寝顔を見るのが好きだった。
机の上には、羊皮紙が三枚。
一枚目は、陛下用。二枚目は、大司祭用。三枚目は、事実。
大司祭用の一枚は、今朝オルグレン本人から依頼されたものだった。第三王女殿下のご様子を、念のため、お知らせ願いたい。言葉は丁寧で、依頼の形をとっていた。灰の目は王家の諜報部であって、教会の下働きではない。それでも、王が口を利けなくなった今、大司祭の「念のため」を断れる者はいない。
イーディスは、大司祭用の一枚に、ペンを走らせていた。
——聖遷祭当夜、書庫にて四刻余り滞在。閲覧対象は奉呈写本、国庫出納簿、ほか一冊(兵站局文書と推定)。
——翌日午後、薬草園見学の名目で北翼へ。宮廷詠紋院第二席ミレイユ・アシャンの研究室を単独で訪問。滞在、約半刻。
——三日後、猊下との茶席。以後、特段の動きなし。
——本夜、陛下のお見舞い。会話は短く、陛下はほどなくご就寝。
最後の項は、嘘ではなかった。父王のうわごとの中身を書かなかっただけだ。王の言葉を守るのは、彼女の職務だった。それについて、迷いはなかった。
迷っているのは、別の項だった。
イーディスは、二つ目の項の下に、もう一行を書き足していた。
——詠紋院の研究室内、七番の報告によれば、滞在中の四半刻、室内の音が完全に途絶。窓越しの聴取不能。紋による遮音と推定。院内に該当する紋を持つ者の登録なし。
七番は、北翼の庭師として潜らせている部下である。その耳は確かだった。二日前の昼下がり、七番の声が彼女の頭の中で、困惑したように途切れたのを覚えている。
——統括、音が消えました。部屋の中の、全部が。
登録された紋を持たない者が、紋を使った。
あの部屋にいたのは、二人だけだった。ミレイユ・アシャンの紋は、秤。音を消すことはできない。
だとすれば。
イーディスは、書き終えたその一行を、長いあいだ見ていた。
大司祭は、この一行を読めば、すぐに意味を理解するだろう。第三王女は、無登録の紋を持っている。詠紋の私的な習得は、教会法で禁じられている。王族であっても、例外ではない。ましてその紋が、盗聴を封じる種類のものであれば。
四つ目の縁談など、待つ必要すらなくなる。
イーディスは、机の引き出しから小刀を取り出した。
羊皮紙は、インクが乾いたあとでも、表面を薄く削れば書き直せる。灰の目の書記は、全員がその技術を身につけている。報告を書き直す必要は、年に何度かある。
彼女は、刃を羊皮紙に当てた。
一行を、端から、丁寧に削っていった。
削るたびに、羊皮紙の細かな屑が机の上に落ちた。インクの色が薄れ、文字の形が崩れ、やがて何も読めなくなった。指でなぞると、その部分だけ、紙がわずかに薄く、柔らかくなっていた。
削り終えて、彼女は小刀を置いた。
それから、三枚目の羊皮紙——事実の一枚に、同じ一行を書き写した。こちらは削らなかった。削る理由がない。事実は、事実のままそこに置いておく。誰に渡すかは、それを書いた者が決めることだ。
そして、まだ決めていない。
イーディスは、大司祭用の羊皮紙を封筒に収め、灰の目の封蝋で閉じた。
閉じてから、自分の手を見た。
なぜ、削ったのか。
問いは、はっきりしていた。答えが、見つからなかった。
第三王女に恩はない。好意もない。あの娘は監視対象で、それ以上でも以下でもない。王に忠誠を誓った者として、王の娘を守るべきだという理屈は立つ。けれど、それを言うなら、無登録の紋を持つ王族を教会に報告しないことは、王家を危険に晒すことでもある。
理屈は、どちらにも立つ。
だから、理屈で削ったのではない。
では、何で削ったのか。
イーディスは、今夜の寝所を思い出していた。
父王の手に伸びかけて、途中で止まった娘の手。止まったあとで、何事もなかったように膝の上に戻された手。
あの手の止まり方を、彼女は知っていた。
ずっと昔、盗賊団の隠れ家で、同じように止まった手を見たことがある。兄の手だった。捕らえられて連れていかれる十四の妹に向かって伸ばしかけ、途中で止まった手。
あれから二十四年、彼女は兄に会っていない。
——それが理由か、と彼女は自分に問うた。
分からなかった。
そうかもしれないし、そうでないかもしれない。感情を使う場所を、彼女は厳密に選んで生きてきた。選んだはずの場所以外で、何かが勝手に動いた。それが、ひどく落ち着かなかった。
足元で、グラムが寝返りを打った。
聞こえない耳を、ぴくりと動かした。夢の中で、何かを聞いたのかもしれない。
イーディスは、老犬の背を撫でた。
頭の中では、相変わらず十七人の声が流れていた。港の波音。関所の番兵の欠伸。大聖堂の、夜番の司祭の祈り。
その中の一つ——王宮の南側、礼拝堂に潜らせている十一番の声が、低く呟いた。
——統括。猊下が、まだ控えの間におられます。茶器を、片づけておられません。
イーディスは、耳を澄ませた。
——冷めた茶を、二つ並べたまま。もう、四刻になります。
それきり、十一番の声は、ほかの囁きの中に紛れていった。
イーディス・カランは、封をした報告書を机の端に置いた。
明朝、大司祭の元へ届ける。そこには、削った一行の、薄く柔らかくなった跡が残っている。光に透かせば、何かが書かれていたことは分かるだろう。何が書かれていたかは、分からない。
オルグレン・ハイドは、光に透かすだろうか。
透かすかもしれない。
それでも、削った。
彼女は燭台を吹き消し、寝台に横になった。
眠れないことは、分かっていた。
セラフィナ・ヴェルディナ
年齢: 19
所属: 聖王国ヴェルディナ王家
肩書き: 第三王女
外見: 淡い金髪を編み上げ、常に完璧に整えている。琥珀色の目。小柄で、公務用のドレスの重さにいつも密かに閉口している。左の鎖骨の下に、誰にも見せていない紋が一つある。
ヴィルヘルム三世
年齢: 57
所属: 聖王国ヴェルディナ王家
肩書き: 国王
外見: かつては巨躯だったと分かる骨格の上に、痩せ落ちた肉。寝台から動けない。額から左のこめかみにかけて、薄い結晶の膜が張りはじめている——王家は星蝕を公表していない。
イーディス・カラン
年齢: 38
所属: 聖王国ヴェルディナ/諜報部「灰の目」
肩書き: 統括官
外見: 特徴がない。中背、中肉、茶色の髪、地味な色の外套。三度会っても顔を思い出せないと言われるのが自慢。両耳の裏に、極小の紋が対で刻まれている。




